東日本大震災後、東北沿岸部で進む防潮堤建設工事(気仙沼市朝日町)。用地が限られる市街地では、直立の形になる。「まるで刑務所のようだ」と批判の声もある(画像は一部加工)(撮影/編集部・澤田晃宏)
東日本大震災後、東北沿岸部で進む防潮堤建設工事(気仙沼市朝日町)。用地が限られる市街地では、直立の形になる。「まるで刑務所のようだ」と批判の声もある(画像は一部加工)(撮影/編集部・澤田晃宏)
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津波からこう逃げた(AERA 2017年3月13日号より)
津波からこう逃げた(AERA 2017年3月13日号より)

 東日本大震災、そして福島第一原発の事故から6年。地震からも、まもなく1年がたとうとしている。いずれの地でも復興は道半ばで、いまも多くの人々が不自由な暮らしを強いられている。しかしその現実の一方で、「風化」は確実に進んでいる。4大都市圏のハザードマップと不動産の値動きを重ねあわせると、「人気の街」の災害危険度がはっきりとあぶり出された。帰宅困難者対策には「東高西低」の傾向が見て取れた。AERA3月13日号は、6年後のいまだからわかったことも含め、「震災時代」を生きるために知っておくべきことを特集。

 国の有識者会議が最悪32万人死亡と想定する南海トラフ巨大地震。とりわけ津波による死者は23万人と見積もられている。東北で生死を分けた津波からの避難に、教訓を学んだ。

*  *  *

 あの日のサイレン、人生2度目の大津波警報だった。宮城県気仙沼市でアミューズメント施設などを運営する丸和専務の尾形長治さん(34)は、海岸近くの自宅兼事務所で仕事をしていた。大きな揺れに緊張したが、初めて大津波警報を聞いた2010年のチリ地震を思い出した。そのときは気象庁は最大3メートルの津波を予想したが、魚市場などが冠水した程度だった。

 運営するボウリング場に行き、従業員に帰るように伝え、自宅に戻った。大事な書類などを2階に運ぶ途中で、1階から轟音とともに波が入ってきた。

 2階の屋根に上った。翌日夕方に、自衛隊に救助されるまで流される家や車を見ながら、そこにいた。第1波が2階まで達したときは、死を覚悟した。

 尾形さんはこう振り返る。

「早く逃げても渋滞にはまり、波にのまれた人もいる。逃げ遅れても近くに高台があり、助かった人もいる。心理的に海から離れようとするが、早く高い場所に逃げるのが一番です」

●自宅近くで犠牲に

 3・11の大津波、生死を分けたのは何だったのか。静岡大学防災総合センター教授の牛山素行さん(48)は、気仙沼市から犠牲者に関する情報提供を受け、人的被害の傾向を分析した。犠牲者の63%が60歳以上と、中高年以上に被害が集中しているほか、犠牲者の自宅と発見場所にも特徴が見られた。犠牲者の11.6%が「居住地敷地内」で犠牲になり、「居住地から500メートル以内」を合わせると47.2%を占めた。牛山教授はこう話す。

「気仙沼市は宮城県石巻市、岩手県陸前高田市に次いで被害は大きかったが、浸水域人口に対する犠牲者数は3.4%。被害の大きい陸前高田でも1割程度で、多くの人が助かったとも言えます」

 そして、こう続けた。

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