批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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大阪の学校法人・森友学園が豊中市の国有地を破格の低価格で取得した問題が話題になっている。
報道を見るかぎり、たしかに異常である。払い下げ価格は相場の10分の1近い。財務省は相場からゴミ処理費用を差し引いたと説明するが、費用見積もりの根拠は不透明だ。取得地に4月に開校予定の「瑞穂の國記念小學院」の校長は、安倍政権と密接な関係にある日本会議の役員を務めている。名誉校長には総理夫人の安倍昭恵氏が就任している。そもそも同校の設置計画は、当初「安倍晋三記念小学校」の名のもと進められていたという。首相に近い人物が経営する学校法人が、首相の名を冠して開設する学校のため格安で国有地を取得する。もし本当にそのようなことが行われていたのだとすれば、政権が飛びかねない大事件だ。
今後の報道や国会審議を注視したいが、それにしてもあらためて思ったのは、日本はいつのまに「安倍晋三記念小学校」なんてものが語られる国になってしまったのか、ということである。安倍首相は最終的に固辞したらしいが、現役首相の名を冠した学校が開設されるのはじつに異例だ。そもそも日本には組織や建築に政治家の個人名を冠する習慣がない。米にはケネディ空港があり仏にはポンピドゥー・センターがあるが、日本には吉田茂空港も中曽根康弘美術館も存在しない。高知空港の愛称は龍馬空港だが、これは鳥取のコナン空港と同じく「キャラ」と捉えるべきだろう。
つまりは「安倍晋三記念小学校」なる命名はじつに非日本的なのだ。ここには昨今のナショナリズムの浅薄さが典型的に表れている。森友学園は幼稚園も経営しており、そこでは年端のいかない幼児に教育勅語を暗唱させている。その模様はネットで確認できる。暗唱が悪いわけではない。しかし、理解できぬ言葉を呪文のように叩き込んだとして、それが愛国心や道徳心につながるだろうか。それはナショナリズムではなくフェティシズムである。
国を愛することと、国を愛するという「記号」をまとって自己満足することはまったく異なる。いまの日本には後者の人々ばかりが溢れている。
※AERA 2017年3月6日号