10年前、沖縄・石垣島から甲子園に出場し、鮮烈な印象を残した八重山商工。
「魂の野球」で離島苦を克服した監督がこの夏、ユニホームを脱いだ。
甲子園で四死球を重ねたマウンド上の投手に、「死ね」と伝令を送った監督がいる。
八重山商工の伊志嶺吉盛(62)。2006年夏の全国高校野球選手権大会2回戦のことだ。
普通、監督からそう言われたら萎縮するが、エースの大嶺祐太(28、現・千葉ロッテ)や内野陣には笑みが広がった。
「黙れ、と思いました(笑)。そう反発することを監督が期待しているんだとわかって、自分を取り戻せました」(大嶺)
次の打者から三振を奪い、勝ちにつなげた。小中学校時代からの信頼関係あってこその効果的な伝令だった。
●離島勢阻んだ島出身者
シマチャビ(島痛み)。離島に暮らす人々の宿命的な苦境を意味する沖縄の言葉だ。八重山商工の甲子園出場には、私たちが想像するより多くのシマチャビを越えなければならなかった。
まずは距離だ。島内にある高校はたった3校で、実戦経験を積むのが難しい。400キロ離れた沖縄本島で開かれる公式戦に出場するだけでも年間30万~40万円かかり、県外遠征に行けばさらに数十万円が必要だ。
結局、島内で能力のある選手は本島の強豪校に引き抜かれ、残った島の子たちは甲子園を目指すこともなかった。1988年には同じ石垣の八重山高が夏の沖縄大会決勝に進んだこともあった。しかし、前に立ちはだかった沖縄水産は、レギュラー9人中3人が石垣島出身だった。
「八重山から甲子園なんて100年経っても無理」
そんな空気にあらがったのが、伊志嶺だった。
沖縄大学時代には準硬式野球で全国大会2連覇。165センチの身長でプロはあきらめ、島に戻って指導者になった。「島から甲子園に出るには一貫指導が必要」と少年野球チームをつくり、大嶺らを指導。少年野球や中学硬式野球で日本一に輝いた指導力を買われ、石垣市の派遣事業で03年、八重山商工の監督に就いた。「野球と両立できるから」とごみ収集業を始めた。