NHKの朝ドラ「花子とアン」で注目を浴びている村岡花子と、“腹心の友”柳原白蓮(びゃくれん)の生涯。白蓮は炭鉱王のもとに嫁いだ後、愛する人と駆け落ちしたことで世間から注目を浴びた。彼女の強さを、長女である蕗苳(ふき)さん(88)が明かす。
「こんなに迄なっても実ハ死ぬ気はない」
1921(大正10)年、筑豊の炭鉱王・伊藤伝右衛門のもとを出奔し世間を揺るがしたあと、実家に幽閉された柳原白蓮は愛する宮崎龍介に宛てた手紙でこう綴った。情死も多かった時代だが、白蓮はその後の人生だけを見つめていたのだ。
「一緒に暮らした娘から見ると、その後半生、45年間こそ、自分の力を発揮した真の姿だったように思います」
長女の蕗苳さんは、幼いとき、懸命に働く母の姿を覚えている。龍介が3年間結核で倒れ、白蓮が生活を支えたのだ。
「夜中に目を覚ますと、母はよくペンを持って机に向かっていました。仕事をすることは母の生き甲斐でもあったようです」
執筆活動だけでなく短冊や色紙も書き、28(昭和3)年、初の普通選挙で龍介が無産政党から出馬すると、慣れないながら選挙資金も稼いだ。童話や源氏物語の子ども向け解説も書いている。
白蓮事件に勇気づけられて、吉原から逃げてきた娼妓をかくまい、助けたこともある(朝日文庫『吉原花魁日記』『春駒日記』)。当時の宮崎家は、若い社会運動家、中国などアジアからの留学生、カフェやバーの女給など、様々な人々が夫妻を頼りにやってきて、“駆け込み寺”さながらだったという。
普段はもの静かでおっとりしているが、ピンチでは別人のように強かった。戦時中、中国との和平工作に携わった龍介が憲兵隊に捕まり、家宅捜索を受けたときもきびきび差配し、蕗苳さんを驚かせた。
「その姿は生来の決断力をうかがわせるものでした」
※AERA 2014年9月1日号より抜粋