話題のNHK朝の連続ドラマ「花子とアン」。主人公の村岡花子の人生をたどってみると、女性解放運動への彼女の独自の考え方などを知ることができる。
東洋英和女学校に編入した花子は英語の勉強に熱中し、英書を翻訳するほどの英語力を身につけた。
「青鞜(せいとう)」などの女性解放の息吹はミッションスクールの中では知りようもなかったが、在学中から廃娼運動などで知られる日本基督教婦人矯風(きょうふう)会の活動に関わることで、花子は社会へ目を向けるようになる。会報誌「婦人新報」の編集を任され、童話や小説、短歌、随筆などを次々に発表、「書きたい」欲求をぶつけていく。
女学校卒業後は山梨英和女学校に英語教師として5年間赴任、女生徒たちに物語を聞かせながら、童話や少女小説を書き続けた。
このころ矯風会の活動を通じて出会った実業家・広岡浅子(1849~1919)からも花子は影響を受けた。日本女子大学校の創立や大同生命の創業などに尽力した姉御肌の女傑である。広岡が御殿場・二の岡で開いた夏期講習に、花子が2年間参加したことに、花子の孫で、ドラマ「花子とアン」の原案になった『アンのゆりかご』の著者、村岡恵理さん(46)は注目する。
「祖母は、広岡さんから、自分の仕事は社会に還元するべきものだという意識を得たのです」
婦人参政権の必要性を説く広岡の演説に共感しつつも、花子は「いきなり思想ではなく、まず若者たちの心を耕すべきだ」と考える。日本にはティーンエージャー向けのよい書物がない。
「日本の出版界の盲点だ。どうかしてこれらの書物を日本の若い人たちに与えたい」
この講習会では、同い年の市川房枝(1893~1981)と出会う。十数年後、市川は婦人参政権運動の旗手となり、花子は応援に力を注ぐ。友人としての交流は戦後も続いた。
花子にはもう一人、心のうちを話せる友がいた。矯風会幹部で肢体不自由児教育でも知られた守屋東(あずま・1884~1975)だ。25歳のとき、花子は村岡けい(にんべんに敬)三(けいぞう)と出会った。妻子ある村岡との道ならぬ恋を、花子は守屋にだけ、打ち明けている。守屋は2人を励まし続けた。
「結婚するまでの半年間に交わされた70通のラブレターには毎回のように『守屋さん』の名前が出てくるんですよ」
晴れて結婚となり、矯風会挙げての結婚式が行われるまで、守屋は相談にのり続けた。
※AERA 2014年9月1日号より抜粋