『太陽の男 石原慎太郎伝』は、『ピカレスク』で太宰治を、『ペルソナ』で三島由紀夫を書いた猪瀬ならではの、作家がどうスターダムにのし上がっていくかも描かれていて面白い。
『太陽の男 石原慎太郎伝』は、『ピカレスク』で太宰治を、『ペルソナ』で三島由紀夫を書いた猪瀬ならではの、作家がどうスターダムにのし上がっていくかも描かれていて面白い。

 その証拠に、維新の議員となった猪瀬は、この本の最後で、石原から「猪瀬さん、日本を頼む」と頭を下げられたことを明かし、議員席で、「何か少しくらい『日本』のために貢献できることがあれば」とひとりごちている。

 なるほど、この本で、道路公団民営化の委員から始まった、猪瀬の政治への進出の理由は十全に語られていると言えるだろう。

 しかし、それを読みながら、私はもうひとりの同世代のノンフィクションライターが書いたあるルポのことを強烈に思い出していた。

 沢木耕太郎の「シジフォスの四十日」である。

 まだ20代だった沢木が、1975年の石原vs.美濃部の都知事選挙に密着した中篇ルポだが、今読んでも素晴らしいできばえだ。

 石原の選挙参謀である飯島清の投票前々日の朝日の記事に関する鋭い読みから始まるこのルポは、実際の選挙の開票という時間の進行と、石原が都知事選にたつにいたった経緯を、そこに集った浅利慶太、牛尾治朗、塩路一郎ら参謀の同床異夢を交えながら記す。そしてなんと言っても、このルポが目が覚める思いがするのは、石原慎太郎という人がどういう人であるかを、沢木ならではの観察眼で鋭くえぐりとっている点だ。

 たとえば、飛び石づたいに離れに向かう庭で石原がボーイとはちあわせしてしまったシーン。

<二人は一瞬、棒立ちになったが、どちらも譲ろうとしない。石原が言った。

「おまえ、ボーイだろ、どけよ!」

 理は石原にあったかもしれない。だが、その時ボーイの眼に浮かんだ憎悪には、かなり激しいものがあった>

<石原が変われば勝てる。だが、彼はついに石原慎太郎であることをやめなかった>

 沢木は、窓ガラスにうつった自分の姿をみてネクタイに手をあてる石原の姿をみて<鮮烈なほどナルシスティックなシーン>と描写し、石原の敗戦に終わったこの都知事選挙のルポの最後でこんなことを書いている。

<彼は間違ったのではないか。政治の世界など本当は不向きの男だったのではないか。彼は小説家であり、小説家でしかなく、小説家こそ天職だったのではあるまいか……>

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