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『The Blanton-Webster Band』
『レスター・リープス・イン』
『Complete American Small Group』

●コールマン・ホーキンス(1904‐1969)

テナー・サックスの創始者

 「アルト・サックス その1」で見たように、20年代の初めにアルト・サックスはソロ楽器として自立する道を歩み始める。一方で、テナー・サックスはトロンボーンの代役に甘んじていた。たいていはアンサンブルのアクセント付け、たまに稚拙なメロディーを吹くくらいで自立できるはずもない。ホーキンスがテナー・サックス奏法の開発に挑んだのは、そんな時代だった。ホーキンスこそ、テナー・サックスの「最初の一人」なのだ。レスター・ヤングほど重視されないきらいがあるが、少しは見直していただけただろうか。

 5歳でピアノ、7歳でチェロ、9歳でテナー・サックスを始める。劇場のバンドを経て、21年にマミー・スミス(女性ブルース歌手)のバンドに入った。推定を含め9月から23年1月までに22曲(10曲はアルト・サックス)の録音に参加しているが、多くは大型編成の歌伴に埋没し、3曲の器楽曲でもソロはない。わずかに、22年12月の《アイム・ゴナ・ゲット・ユー》が、テナー・サックスのメロディー楽器への移行を伝える貴重な記録だ。23年6月にマミーのバンドを去り、ほどなくフレッチャー・ヘンダーソン楽団に加わる。

キング・オブ・サキソフォン

 入団直後の8月に《ディクティ・ブルース》でフィーチャーされた。舌打ちまじりの極度のスタッカート奏法は未知のリズム楽器を思わせ、珍奇このうえない。10月に「事件」がもちあがる。ルイ・アームストロング(トランペット)が入団し、そのジャズ魂にバンドごと洗脳されてしまうのだ。ホーキンスも例外ではなかった。11月から、ルイ流のレガートを併用したメロディアスな演奏になっていく。ただ、27年までは小枝をポキポキ折るような屈折感をとどめていた。26年5月の《スタンピード》が過渡期を代表する名演だ。

 28年から29年にかけて屈折感は薄れ、流麗度を増していく。ジャズ魂を知らしめたのはルイだが、流麗な奏法は28年に短期間在団したベニー・カーター(アルト・サックス)が無言の手本になったものと見られる。31年の春、ハード・ドライヴィングでラプソディックなホーキンス・スタイルが完成を見た。これもカーターが復帰していた直後で、偶然とは思えない。34年から39年までの滞欧期、帰米後の《ボディ・アンド・ソウル》に始まる快進撃、ビ・バップへの意欲など、スタイル確立後の話は別の機会に譲らせていただく。

 30年代の後半にレスター・ヤングが出現するまで、あらゆるテナー・サックス奏者がホーキンスをモデルにした。影響をうけた第一世代の大物をあげておこう。黒人では、直系の筆頭でベン・ウェブスター、ホーキンスの滞欧中に第一線に躍り出たチュー・ベリー、テキサス三大テナーのハーシャル・エヴァンス、バディ・テイト、アーネット・コブ、バップ期に活躍した進歩的スウィング派のドン・バイアス、ラッキー・トンプソンがいる。白人では、シカゴ派のバド・フリーマンが過渡期のポキポキ・スタイルを出発点にした。

●ベン・ウェブスター(1909‐1973)

ホーキンス直系の個性派

 ベンは、ホーキンスとレスターと並んで「スウィング期の三大テナー」に、ホーキンスとベリーと並んで「ホーキンス派の三大テナー」に数えられる巨人だ。アップ・テンポではグロウルをまじえた豪快なトーンで激情をほとばしらせ、一転してバラードでは切々たる心情をむせび泣くようにつづる、蒸気機関車の爆走と徐行を思わせるスタイルの持ち主だった。実際、いつもは温厚だが、いったん怒りに火がつくと周りの手に負えない二面性をもっていたという。風貌をご存知でない方は、笑顔の?仁王様を思いうかべてほしい。

 最初はヴァイオリンを手にし、長じてピアノに転じた。無声映画の伴奏者を経て、レスターの父親ビリーが率いるバンドに雇われる。ほどなくビリーの教えと勧めによってテナー・サックスを志し、30年の初めにジーン・コイ楽団でサックス奏者としてデビューした。初録音は31年3月のブランチ・キャロウェイ楽団のセッションで、在籍中にソロをとっているようだが未確認だ。32年にベニー・モーテン楽団に移り、12月のセッションでフィーチャーされている。30年頃のホーキンスを思わせる屈折感と起伏感の残るスタイルだ。

バラード演奏の人間国宝

 33年からはフレッチャー・ヘンダーソン楽団、ベニー・カーター楽団などを渡り歩く。個性を確立していく過程は、34年9月のヘンダーソン楽団の《ホッター・ザン・エル》、12月のカーター楽団の《ドリーム・ララバイ》で追うことができる。これらで注目すべきは流麗度を増していることだ。後者はもちろん、前者にもカーターが参加しており、ここにも流麗な演奏を身をもって示すカーターの影が感じとれよう。ほぼ完成した姿は、36年12月のテディ・ウィルソン楽団の《ティー・フォー・トゥー》ほかにとらえられている。

 40年にデューク・エリントン楽団のスター・ソロイストの座につくと、同僚のジョニー・ホッジス(アルト・サックス)に触発され、バラード演奏に磨きをかけていった。43年の退団後はフリーとして多くのセッションに参加し、51年12月にジョニー・オーティス楽団でバラードの金字塔《スターダスト》を残す。ベンの退団後もエリントンは、アル・シアーズ、ポール・ゴンザルベス(白人)など、ベン系の奏者を雇った。ともに白人で、JATPでならしたフリップ・フィリップス、モダン派のルー・タバキンも影響をうけている。

●レスター・ヤング(1909‐1959)

ビ・バップを示唆した天才

 37年、レスターはクールなトーン、かすかなヴィブラート、小節線にこだわらないソロ構成など、ホーキンスと正反対のスタイルを引っさげて表舞台に登場した。さらに、チャーリー・クリスチャン(ギター)にビ・バップの方法論を示唆し、チャーリー・パーカー(アルト・サックス)のスタイル形成にも影響をおよぼしている。ビ・バップになじめなかったレスターをモダン・ジャズの開祖とは呼べないが、モダン・ジャズはレスターの楽想とともに始まったとはいえそうだ。しかし、影響源について語ることはほとんどない。

 父親ビリーが率いるバンドではドラムスを叩いていた。13歳でドラムスを投げ出し、アルト・サックスをあたえられる。18歳でバンドを抜け、36年にカウント・ベイシー楽団に入るまで、中西部や北中部のバンドを転々とした。著名なのは、30年前半のウォルター・ペイジ、32年初めから33年秋までのバスター・スミス、33年秋のベニー・モーテン、34年初めのベイシー、34年3月から7月までのヘンダーソン楽団あたりだ。テナー・サックスを始めたのは28年頃で、32年には専念し、個性的スタイルは出来あがっていたとされる。

短い最盛期と長い凋落期

 初録音は36年11月、ベイシー楽団がジョン・ハモンド(プロデューサー)の勧めでニューヨークに進出する途上、シカゴで録音されたコンボ・セッションだ。圧巻は《シュー・シャイン・ボーイ》と若き日のパーカーがコピーに励んだ《レディ・ビー・グッド》で、レスターはレスター以外の何者でもない。かつて、ジミー・ドーシーのスタイルで行くか、フランキー・トランバウアーのスタイルで行くか悩み、後者に決めたとされるが、ノン・ヴィブラートと寛いだ感覚は共通するものの、前代未聞の独創性は比べるべくもない。

 初録音が生涯で最高の名演となった。それでも、37年1月の《ローズランド・シャッフル》から43年12月の《ジャスト・ユー・ジャスト・ミー》《サムタイムス・アイム・ハッピー》まで、ベイシー楽団を中心に多くの名演を残している。最盛期はせいぜい44年5月の『ブルー・レスター』までで、あとは確実に下降線を描いていく。44年9月から45年6月までの人種差別に満ちた過酷な兵役が感受性をズタズタにしたとされるが、注意深く聴くと、43年12月にはトーンが重苦しくなり、閃きに翳りが見え始めていることがわかる。

 皮肉なことに、本人の凋落と入れ替わるように、最盛期には軽視されていたレスターをモデルとする奏者が輩出してくる。第一世代はデクスター・ゴードン、ワーデル・グレイ、ジーン・アモンズといった黒人バッパーで、彼らはホーキンス流のタフ・トーンにレスター流のフレーズをのっけた。クール・ジャズの台頭とともに第二世代が輩出してくる。スタン・ゲッツ、ズート・シムス、アル・コーンといったウディ・ハーマン楽団出身の白人奏者で、彼らはトーンもフレーズもレスターにのっとり、そのスタイルを築きあげた。

●ドン・バイアス(1912‐1972)

スウィング派だが進歩的

 系譜というテーマを追っていると、時としてジャズ本でとりあげられることがまずない人物が浮上してくる。巨人だから影響力が大だったとはかぎらないし、その逆だともかぎらないのだ。バイアスの名前をご存知の方はわずかだろうし、演奏を聴かれた方となると希れだろう。46年には渡欧したので本国でも知名度は低い。ところが、大きな影響力を発揮した。一息で長いラインをウネウネ繰り出す、ベニー・ゴルソン(モダン版ベン・ウェブスターというのは誤認)のオジキみたいな進歩的なスタイルが玄人うけしたのだろう。

 ヴァイオリン、クラリネット、アルト・サックスを経てテナー・サックスに転じ、ライオネル・ハンプトン楽団などを渡り歩く。初録音は38年5月のティミ・ローゼンクランツ楽団のセッションだ。《ウィー・ビット・オブ・スウィング》での奔放さはホーキンス風だが、《イズ・ジス・トゥ・ビー・マイ・スーベニール》ではハーシャル風の温かい情感を見せる。41年から43年まで在籍したベイシー楽団で注目される存在になった。41年11月の《ハーバード・ブルース》をはじめ、雑味のないトーンとスマートな語り口が新鮮だ。

進歩的だがスウィング派

 44年の半ばにはウネウネ奏法を前面に出すようになる。6月の《ドンズ・アイデア》が最初の成果だ。前後してバイアスはビ・バップに関わりだし、44年にはディジー・ガレスピー(トランペット)の初のバップ・コンボにも参加した。しかし、45年と46年のバップ・セッションに聴くバイアスは場違いといわざるをえない。46年2月のディジーの《アンスロポロジー》は、バイアスが抜けたおかげで最上の出来になる始末だ。結局、バイアスの先進性はスウィング系の演奏で光る類のもので、戦前レジームから脱却できなかった。

 渡欧後、判じ物のようなスタイルに磨きがかかっていく。影響をうけた者のほとんどがハード・バッパーだ。ビ・バップ後のモデルなき世代にとって、保守系左派とでもいうべきスタイルのバイアスが理想像に映ったということではないか。彼らに共通するのは、ウネウネ繰り出すロング&ワインディング・ラインだ。黒人では、ゴルソン、「超舌」技巧のジョニー・グリフィン、「バイアス命!」のローランド・カークがいるし、ジョン・コルトレーンもそれ臭い。白人では、ゴンザルベスのテナー・マラソンに影がうかがえる。

●参考音源

[Coleman Hawkins]
Mamie Smith Vol.3 (22.5-23.1 Document)
A Study in Frustration/Fletcher Henderson (23.8-33.8 Columbia)
First Impressions/Fletcher Henderson (24.10-31.7 Decca)
Swing's the Thing/Fletcher Henderson (33.9-10 Decca)

[Ben Webster]
Bennie Moten & Count Basie (32.12 Bluebird)
Benny Carter 1933-1936 (34.12 Classics)
Teddy Wilson & his All-Stars (36.12 Sony)
The Blanton-Webster Band/Duke Ellington (40.3-42.7 RCA)

[Lester Young]
Lester Leaps In (36.11-40.8 Sony)
The Complete Decca Recordings/Count Basie (37.1-39.2 GRP)
The Kansas City Sessions/Lester Young (38.9, 44.3 Commodore)
The Complete Lester Young (43.12, 44.3 Mercury)

[Don Byas]
Swing Sessions Vol.2/V.A. (38.5 Bluebird)
Count Basie 1939-1951 (41.1-42.7 CBS/Sony)
Complete American Small Group Recordings/Don Byas (44-46.9 Definitive)
Dizzy Gillespie 1945 (45.1 Classics)

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