人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は「自宅待機と言われても」。
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このところ言葉の大切さをしみじみ感じさせられている。例のコロナウイルスの蔓延である。
マスコミに登場する医者や医療関係者には人々への気遣いが感じられるが、それも人によって違いがある。むしろ専門家にははっきり言ってもらってもいいが、もっとも気になるのが政治家である。
一番最近で言えば、二月二十五日午後の厚労省。大臣による対策の基本方針の記者発表を見ていてつくづく心がないと感じさせられた。前日の専門家会議の意見を踏まえて、注意深く発言しているのはわかるが、そのためにミスをしないよう、ひたすら官僚の作った原稿を読んでいるのがわかる。
そのためにもっとも聞きたい部分が抽象的な言葉で表現される。言葉が抽象的であるということは、その基本にある考え方そのものが抽象的だといっていい。
今まで行われてきたことと多少の変化はあるものの、最も具体的だったのが、北海道の知事からの要請を受けて、感染症の専門家を派遣するという部分であった。
なぜ抽象的になるのか。責任回避が裏にあると思える。国民の命に関することだけに慎重になるのはわかるが、私たちが知りたいのは、現時点で公表可能な情報である。それが少なくては、不安解消にはつながらない。国が責任を持って行ってくれると期待するが、どうにもはっきりしない。
クラスターなどといった外来語を当たり前に使われても、もっとも心配しているはずの高齢者には意味のわからない人もいるだろう。なぜもっとていねいにわかりやすく話さないのだろう。
私が放送局に勤めていた頃は、わかりにくい単語や外来語が出てきたらわかりやすく言いかえるように教えられた。
今はわかりにくくわかりにくくしている感なきにしもあらず。かつてある特殊法人の仕事をしていた時、仲よくなった関係省庁の人から面白いことを聞いた。