ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの本誌連載「アイドルを性(さが)せ」。今回は、「槇原敬之さん」について。
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マッキーこと槇原敬之さんの楽曲は、多くのゲイ男性たちの心の拠り所となってきました。例えばユーミン・聖子・明菜・安室・お浜さんといった女性歌手が「刺激」や「憧れ」の象徴(アイコン)だとしたら、マッキーの歌は「御守り」のような存在。人は誰でも生きていくために何かしらの「武器」や「盾」を持ちますが、それ以上に自分だけの「御守り」があるというのは何よりも心強いものです。
かつて札幌のゲイパレードでは、毎年参加者全員が風船を空に飛ばす儀式があり、その際に流れるのがマッキーの『どんなときも。』でした。この曲は、男性の和モノ(邦楽)でゲイ・アンセムになった初めての曲でもあります。しかし、「リアルな日常」を生きることからできるだけ目を背けていたかった私は、いつもこの演出を「臭い」「恥ずかしい」と感じ、「どうせ流すなら明菜の『DESIRE』とかにすればいいのに」などと捻くれたことを思っていました。リアルを生きる「勇気」や「慰め」を求めるぐらいなら、妄想を武器に独り距離を置いている方がマシだと。でも本当は、人並みの日常を送る自信がない完全なる「リア充コンプレックス」の塊だっただけであり、それは今もあまり変わっていません。
今年でデビュー30年。マッキーの音楽がずっと時代にハマり続けてきた過程は、バブル崩壊を経て日本人の価値観がより個人主義的になり、グローバル化の裏でドメスティックな思考や語彙が熟成し、ひいては日本の男性像が非ダンディズム化していった時期と見事にリンクしています。