林:何をおっしゃいます。原さんは最初、フランスから届く「ELLE」の翻訳の仕事で「アンアン」に携わったそうですけど、マガジンハウスから何度も正社員の試験を受けるように言われたんでしょう? なぜ正社員にならなかったんですか。

原 だって、正社員になったら営業になるかもしれないし、男性誌担当になるかもしれない。

林:まさかそんなことは。

原:そういうのをまじめに考えるタイプなんです。あのころは「平凡パンチ」とか「月刊平凡」に行く可能性もあったし、「アンアン」でも映画担当になったら展示会やファッションショーに行けない。ファッションってずっと見続けないと流れがつかめないんです。社員になったらそれができないなと。「袋が立つ」といわれたボーナスには憧れたけど(笑)。

林:当時はそうだったみたい。

原:うちは父が物書きだったので、現金収入が不定期なのを感じていた。サラリーマンの奥さんになれば毎月決まった収入が入るんだと知って、白百合(湘南白百合学園)で将来の希望を書くとき「サラリーマンの奥さん」って書いたこともある。だけどあのときは、よく考えてやめた。契約はしてたけど、正社員にはならなかったんです。私は現場をやりたい人なんですね。

林:マガジンハウスとは別に、「婦人公論」で長年やってらした巻頭のファッションのページも、私、大好きでした。

原:「構成」として名前を出していただいて、あれが17年くらい、ずいぶん長く続きました。

林:「婦人公論」って、姑がどうしたこうしたというおばさんの雑誌だったんですよね。そこに原さんが選んだちょっとエッジの利いたファッションが並んでました。

原:「婦人公論」は売れてたんですよね。今では考えられない部数だったんです。私自身もうちょっと大人の格好をしたい年齢だったから、「婦人公論」と「アンアン」の両方をやれたのはすごくよかったと思ってます。自分でテーマも決められたので、毎月すごくはりきって、しっかりやりました。

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