昨年の大河ドラマ『いだてん』で、64年東京五輪の最終聖火ランナーに選ばれた「原爆の日に広島で生まれた19歳の学生」が、周囲から「8月6日」「アトミック・ボーイ」などと呼ばれ、個人ではなく「戦後復興」や「平和の象徴」としての責務を背負うことに葛藤する様が描かれていました。昨今のメディアや政治にも、「彩り」を効果的に使って「意味合い」を持たせる傾向が顕著です。
現代は、個人の感情や選択が昔以上に尊重される傾向にある一方で、意識集約を演出する際には、このような記号的な「彩り」を配置する手法が多いように感じます。本来ならもっと個人単位で熟考すべきはずの案件が、シンボルやアイコンに委ねられ過ぎてしまっている感も否めません。もちろん考えるきっかけとしてシンボルは不可欠ですが、それだけに頼ることは、裏を返せば「その気がない」のと同じです。ならば端から「無理は承知で……」と前置きしてしまった方が、どんなに潔いか。
多様性とか男女平等とか人種差別撤廃とか。今年も様々な場所や機会で叫ばれるでしょう。その記号的な「彩り」のひとつになれるのならば、私は喜んで馳せ参じようと思っています。ただ、そんな上辺だけの景色に慣れ飽きて、不感症になるのも時間の問題かと。ならば「彩り稼業20年選手」としては、もっと難解で不親切な存在になることも必要なのかなと心を新たにする2020年の幕明けです。「派手でハッピーで経験豊富」、そんな単純に片付けられては女装の名が廃る。今年も皆さん、感性豊かに共存いたしましょ!
※週刊朝日 2020年1月17日号