でも、そんな暮らしが好きなのだから仕方がありません。私もヨコオさんと同じく、好きなことしかしていないのです。断りたいような仕事は頼んでこないので、みんな引き受けてしまうだけです。いやいや書いたものなど全くありません。
九十七にもなって、なぜ、まだ、カツカツした仕事をするのかと、言われることがありますが、好きだから書いているだけです。
遺言はまだ書いていませんが、一昨日の晩、遺詠の俳句は、十ほど作れました。
季語さえ変えれば、どの季節に死んでも全部使えます。
形見分けの品も、貰ってもらう人も整理出来ました。
さあ、いつでも来い、と「死」に向かって言っています。
日々、体力の衰えを感じるので、出来れば、自分でトイレに行ける間に、さっさと死にたいと願っています。
出家者の私は、すべてが、あなた(仏さま)まかせなので、それ以上、あれこれ案じたことはありません。
棺に、筆記用具など入れないでくれと、寂庵のスタッフに言ってあります。
あの世では、そんなものは買わなくても、必要な時、パッと目の前に出現するのではないでしょうか。
ヨコオさんとは向こうでもバッタリ、どこかで逢いたいものですね。
あちらでは「念」が強くなるので、そう念じれば逢うかもしれません。
置かれる段階がちがうけれど、時たま、ダンスパーティとか、盆踊りがあるのではないでしょうか。その時は、ヨコオさんがデザインしてくれたあのガイコツの、踊り用の浴衣を着て、パーティに出ましょう。
ああ、そんなことを想像すると、早くあの世で逢いたいですね。
それにしても九十七とか、八になると、人間の体は、ほんとに老衰がひどくなって、あまり動けなくなるのは、心外なことです。
そうそう、猫は、あちらでは飼い主と逢えるのですかね。うちの黒猫のマルは、留守の多い私が帰庵すると、誰よりも早く気がついて、走り出て出迎えました。やはり、「逢う」ということは、相手が人でも動物でも心の踊る嬉しいことかもしれないですね。ヨコオさんちの猫も、うちの猫たちも、わたしたちの逝くのを待っているような気がしてきました。
では、またね。
※週刊朝日 2019年12月13日号