という手紙が来て、文通が始まったのです。上京した時、呼ばれて、はじめてお宅へ伺いました。その頃の三島さんはやせていて、小さく、貧相でした。白い絣(かすり)の着物を着て、大股に歩くと、黒い毛のびっしり生えた痛々しいほど細い脚が見えました。少年のようにきゃしゃな躰(からだ)つきに似合わない大きな声が堂々として、目が燃えるように輝き、「ああ、これが天才の目だな」と、一目で圧倒されました。それ以来、亡くなるまでのおつきあいでした。私が小説を書くようになった時、「手紙はあんなに面白いのに、小説はどうしてこんなに下手なんだろう」と言われました。それでも同業者として源氏物語について、座談会をしたこともありました。竹西寛子さんと三人でしたが、その時、お弁当に日本食が出たら、三島さんは、「ビフテキ!」と、別に注文して大きな厚い肉を二枚、ぺろりと食べました。その時はもう、体質改善をしていて、小さいながら堂々とした、前にもまして大きな声で話しました。
亡くなる直前まで文通はつづいていました。
今でも生きて、三島さんに逢えたことは、私の財産の一つになっています。討入(うちい)りの前、三島さんはパレスホテル(改築前の)によく泊り、その部屋で、討入りの練習をしたそうです。私はずっとパレスホテルを常宿にしていたので、よくそこで三島さんのことを想いだしていました。その三島さんに愛されたヨコオさんと、お互いこんな老年になって、おつきあいしてるなんて、思えば不思議なことですね。
亡くなられた後、ポルトガル大使になっていた三島さんの弟さんと親しくなり、色々、内輪の話を一杯ききました。思いがけない話ばかりで、文壇史が変りそうなことが多く仰天しました。それを書き残す閑も余力もなさそうです。今度逢った時、忘れていなければ話しましょう。近頃、何でも、すぐ忘れた“ふり”をすると、秘書の「まなほ」に叱られています。“ふり”をするのではなく、ほんとに、忘れるのです。ベッドで横になっているのが天国です。でも食欲と睡眠欲は充分(じゅうぶん)なので、まだ死ねそうにありません。困ったことです。
死んだ時、カンオケに、原稿用紙と万年筆なんか入れて欲しくないです。あの世では、ヨコオさんに弟子入りして、絵を描きたいです。洋服のデザイナーも悪くないナ、お好み焼屋も魅力があるナ……。あの世でも仲よくして下さいね。
では、いい夢を。
※週刊朝日 2019年11月15日号