帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など多数の著書がある帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など多数の著書がある
※写真はイメージです (c)朝日新聞社※写真はイメージです (c)朝日新聞社
 西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。老化に身を任せながら、よりよく老いる「ナイス・エイジング」を説く。今回のテーマは「家族との付き合い方」。

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【ポイント】
(1)一家団欒の時間を犠牲にして仕事に打ち込んだ
(2)家にいると奥さんや子どもさんが嫌な顔を
(3)「家族が一緒にいなければならない」は幻想では

 私が学生だったときのことですから、昭和30年頃でしょうか。大学前の本郷通りには、都電が走っていました。夜の帳(とばり)が下りてから、その都電に乗って車窓から夜の街を見るのが好きでした。

 まだ住宅事情が悪い頃でしたから、線路沿いの店先に続いて居間らしき部屋があって、そこでの一家団欒(いっかだんらん)の夕食風景が見えるのです。家族の語らいが聞こえてくるような気がして幸せな気持ちになりました。いい時代だったですね。

 私が子どもの頃も、終戦後の食糧不足で食べるものはなかったのですが、夕食は丸い卓袱台(ちゃぶだい)を囲んでの一家団欒でした。父親だけが手酌で盃を傾けていました。たわいのない会話があって、ラジオから「リンゴの唄」が流れていました。

 こうした家族の団欒が失われたのはいつ頃からでしょうか。

 私自身が外科医の道に進んで、自分の家族を持ったにもかかわらず、一家団欒を楽しむ余裕はありませんでした。帰宅時間はいつも遅くて、重症患者さんがいれば、病院泊まりも少なくありませんでした。2人の子どもとは、ゆっくり顔を合わせることがなくて、子育ては妻に任せきりのダメな父親でした。

 私ほどひどくはなくても、高度成長期以降にサラリーマンを経験した人たちは同じようなものだったのではないでしょうか。一家団欒の時間を犠牲にして、仕事に打ち込んでいた人が多かったと思うのです。

 さて、その人たちの人生の後半の典型的な例に先日、出会いました。退職して家にいると奥さんや子どもさんが嫌な顔をするというのです。

 
 まあ、そうでしょうね。いままで一家団欒の時間を持つことがなかった人が、急に家族と顔を合わすようになっても、話すことがないでしょう。

 私も似たようなものだったのです。時間があって家族と過ごそうと思っても、すでに家族はバラバラでした。そのうち、妻が心筋梗塞で逝き、子どもと私だけが残されました。

 しかし、私は思うのです。家族がいつも一緒にいなければならないというのは幻想ではないだろうかと。夫婦でも親子でもそれぞれに人生があります。家族の一人ひとりが自分のやるべきことをやって、いのちのエネルギーを高めることで、家族全体のエネルギーが高まります。

 江戸時代、人生の後半に『翁草(おきなぐさ)』という大著を書き上げた神沢杜口(かんざわとこう)は妻に先立たれ、子どもたちが同居を勧めると、「家族は時々会う方が遠き花の香りが風向きによって匂ってくるようでよいのだ」と断りました。そして、一人暮らしで膨大な著作を完成させたのです。

 家族に嫌な顔をされると嘆く男性には、まずは自分自身のエネルギーを高めるべきだと助言しました。何でもいいのです。何かを始めましょう。それでエネルギーが高まります。

 私自身、長男とは年に4回程度会って、盃をかわすだけですが、同居していた頃よりも、むしろ心が通じ合っている気がします。

週刊朝日  2019年10月4日号

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帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など著書多数。本誌連載をまとめた「ボケないヒント」(祥伝社黄金文庫)が発売中

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