教授が中心となる忘年会では、彼の生きてきた時代や人間模様の話に花が咲く。現在の奥さんは、矢野さんにとってみれば、いわば夫を奪った女性だ。

「でも彼女は心配りの達人で、一緒にいてみんな心地良くなるんです。はじめは、それを矢野さんには伝え難かったんだけど」

 美雨さんは気を遣って生きてきた。だから幼い娘には伸び伸びと育って欲しい。

「海に行ったんです、家族で。そうしたら娘が浜辺でいきなり水着を脱いで素っ裸になって。そして、こっちを振り向いてにっこりした。それがとってもイノセントで、嬉しかった」

 美雨さんが最後で泣いたわけが少しわかった気がした。15歳のカフカ少年の自立と、パラレルに引かれた坂本家の兄妹の境界線をぽんっと飛び越え、家族の結び目となった娘の笑顔がシンクロしたのかもしれない。

 美雨さんは舞台の公演プログラムに、ゲームクリエイター飯野賢治さんから「いつか、作品の中で父親を殺さなくちゃいけないかもしれないね」と言われたと記した。

 先日、村上春樹さんが「文藝春秋」誌に「を棄てる」と題し、90歳で亡くなったお父さんについて長いエッセイを寄稿していた。国語教師で僧侶でもあった父、朝食前に仏壇で読経していた父、若い頃兵士として中国に送られ、多くの死を目撃した父……。

 当日の舞台には、アイスランドのシガー・ロスの楽曲が通奏低音のように流れていた。父の歴史と自身の思いを綴った春樹さんの文章と美雨さんの涙とともに、忘れられない一夜となった。

週刊朝日  2019年6月21日号

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