落語家・春風亭一之輔氏が週刊朝日で連載中のコラム「ああ、それ私よく知ってます。」。今週のお題は「再出発」。
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原稿はいつもガラケーで書いている。つなぎで入った喫茶店でコーヒーを飲みながらポチポチと携帯のボタンを押す。でもなかなかほどよい喫茶店がないのです。3月8日昼。浅草の行きつけの喫茶店『文七』の階段を上ると、「3月31日をもって閉店いたします」との貼り紙が。噂は本当だった。
『文七』は10年前、老舗の名店『アンヂェラス』の向かいに出来た新興店。家業が一段落した落語好きのご主人が、一念発起して開いた「生の落語を聴ける喫茶店」だ。昼は通常の喫茶、夜は若手噺家の落語会が開かれる。店名はもちろん人情噺『文七元結』からとったものだ。ドアを開けると、常設の立派な高座に屏風、ふかふかの座布団。店主の道楽全開の素敵な店。
10年前、寄席囃子のお姉さん(といってもおばさん)が「私の友達の弟が喫茶店開いたのよ! お客さん来ないから行ってあげてよ! 良かったら落語会もどう!?」と強引に営業をかけてきた。仕方なしに行ってみると、綺麗な店内に気のいいご主人、美味いコーヒーにBLTサンドとハヤシライス。以来、二つ目の頃には落語会もやらせて頂き、寄席の合間に寄っては原稿を書いている。お世辞にも常に大入り満員のお店ではなく、平日は特に空いていて集中するにはもってこい。そこが気に入ってたのにな……。
この日もBLTサンドとコーヒーを頼んでノートを開く。まだ原稿用のメモは真っ白のままだ。「閉めちゃうんですねー?」と聞くと、「そうなんですよー。今までありがとうございました!」とご主人は案外に明るい。
「私も年とったんでね……10年やりましたから、このへんでちょっとひと休み(笑)」。おいくつかは聞いてなかったが、見たかんじ恐らく70オーバーか。
「孫が5人いてね。お店をやってると土日が塞がっちゃって幼稚園や小学校の行事に出られなくてねぇ。『じいじはいつも運動会に来ないね……』って言われるようになってきちゃった(苦笑)」。なるほど……そら、寂しいな。