まず、ジョルジオ・モロダーには、感謝しなければいけないことがある。それも、感謝状を出したいくらいに感謝している。それは、わたしに、フリッツ・ラング監督1927年公開モノクロ・サイレント映画『メトロポリス』を観るきっかけを与えてくれたことだ。
もちろん映画の存在は知っていた。世界初の本格SF映画であるという知識もあった。あの女性型のロボットのイメージも、かっこいいなと思っていた。しかし、その映画を観ることはできなかった。
あらためて言うが、観たい映画が、すぐに観られるなんて状況は、つい最近のことなんだよ、若者よ!
昔は、DVDなんてなかったんだ。パソコンなんて、なかったんだ!
1956年(昭和31年)生まれのわたしは、はじめて、我が家にテレビが来た日のことを今でも覚えている。いや、まだ、テレビが我が家になかった頃、銭湯の帰りに、父に連れられて、近所のテレビを買った家に立ち寄ったことがある。そのとき、広い玄関からテレビの置いてある居間まで、近所の人たちであふれかえっていた。まだ、幼稚園にもあがっていなかった小さなわたしには、なにも見えない。近所の人たちのぬいだ靴だけが続いている。父は、わたしにテレビを見せようと肩車をしてくれた。たくさんの人の頭の向こうにテレビが見えた。たぶん力道山の試合だったと思う。みんなの歓声があがった。その時だった。「肩車してると、見えねえぞ!」と後ろの人に怒鳴られた。
そのあとの帰り道、父が、
「うちもかならず、テレビ、買ってやっからな」と言ったのを覚えている。
しかし、テレビが我が家に来たからといって、ビデオがあるわけではない。
テレビは、今、放送している番組しか見ることができなかったのだ。
だから、新しく始まった『ウルトラQ』(1966年より放送開始)を観たければ、日曜の夜7時には、テレビの前にいなければならない。我が家は、家族で出かけるのが好きな一家だった。しかし、遊園地や動物園に行っても、日曜、夜、7時には、家に帰って、テレビの前にいなければいけないのだ。そうしないと『ウルトラQ』は観ることができない。
テレビとは、なによりも、放送してくれたものでなければ、見ることはできない。DVDなんて、売っていないのだから、なにも始まらない。
ここで、一応、確認しておくが、わたしが、フリッツ・ラング監督の1927年公開モノクロ・サイレント映画『メトロポリス』を観るまでの歴史を書いているところです。
つまり、まだ、テレビで映画『メトロポリス』を放送していなかったわけだ。あるいは、放送していたとしても、その時間にわたしはテレビの前にいなかったということだ。
高校を卒業して、東京に出てきた。わたしは、音楽と映画と文学に夢中だった。と言っても、お金はない。生活するのがやっとの仕送りで、レコードなど買える余裕はない。
そこで、近所の小石川図書館に行った。今、調べてみるとこの図書館、レコードの貸し出しに力を入れている図書館だった。もちろん、CDなんてないし、レコード・レンタル屋さんもまだこの世に存在していない時代だ。
図書館の視聴覚室の前の階段に、入荷したばかりのレコードの帯がずらりと貼ってある。まだ荒井由実だったユーミンのデビュー・アルバム『ひこうき雲』とレッド・ツェッペリンの『聖なる館』の帯が並んで貼ってあったことを、今でも覚えている。まるで、宝の山とであったような喜びだった。この図書館の話は、いつか語りたいと思っているが、今回は、まずは、映画『メトロポリス』。つまり、本とレコードは、なんとか、出会える方法がみつかったが、映画は、そうはいかない。
映画は、映画館にいくか、テレビで放送してもらうのを待つしかない。名作とよばれる本を図書館で借りるようなわけにはいかないのだ。『2001年宇宙の旅』という映画がスゴイらしい!、といわれても、観ることができないのだ。
観ることができないということは、悪いことではない、と今のわたしは言うことができる。「会えない時間が愛育てるのさ」という歌詞があったが、同感だ。「かんたんにできる」とか「便利」はありがたいが、失うものもあるということにこの年になって気づいてきた。見たいのに見ることができない。本を読んだり友達の話を聞いて、見たいという思いが頭の中でいっぱいになり、そのうち、勝手に自分の中でイマジネーションが拡がっていく。その想いやイマジネーションがとても大切なような気がするのだ。ネットで検索して、すぐ見ることができてしまうと、この心の中の醗酵が進まないような気がする。ちなみに、先の歌詞は、郷ひろみの「よろしく哀愁」。作詞は、加藤和彦の奥様、安井かずみ。
映画が観たくて仕方のないわたしは、名画座と出会う。名画座という名称は、今はほとんど聞かなくなったが、当時は、主な駅にあるといってもいいくらいたくさんあった。
映画は、新作ができると、ロードショーとして上映される。しかし、数週間すると、もうその映画は観られなくなってしまう。その後に活躍するのが名画座だ。当時のビンボー学生にとっては、安く映画が観られる夢のような場所ということだ。例えば、ロードショーは、1200円位だったと思う。正直、ほとんど行ったことがないので、記憶がない。それに比較すると、名画座は、安いところは、200円、300円が普通だった。そして、2本立て3本立てはあたりまえ。つまり、200円で3本観られるわけだ。今、書いていて気づいたのだが、DVDのレンタル料より安いくらいだったのだな。
茗荷谷に住んでいたわたしは、池袋の文芸座、文芸地下、大塚の大塚名画座、鈴本キネマ、飯田橋ギンレイ、銀座並木座、遠くは、三鷹オスカーなどによく行ったものだ。それも、できる限り、自転車に乗って出かけた。地下鉄代を払う分を映画の入場料に回すためだ。このころ、観た映画のタイトルを記録していたノートがある。テレビで見たものも含めると、年間500本を超える数だった。1日に1本以上見ていたことになる。これは、オールナイト(終電から始発まで上映し続ける)の5本立てなどによく出かけていたので、こういう数になったのだ。
しかし、これでも、どこかの映画館で上映されなければ観ることはできない。また、その上映されるということを知らなければ見に行くこともできない。そこに現れたのが、情報誌だ。『ぴあ』や『シティー・ロード』という雑誌が、東京近辺のどこで、どんな映画を上映しているのか、教えてくれた。余談だが、わたしは、後に、このぴあに就職し、20年間働くことになる。これも、いつか、話すことがあるかもしれない。
当時は、まだ月間だった情報誌を見て、1ヶ月間の計画を立てる。しかし、その中に、モノクロ・サイレント映画の上映は、とても少なかった。チャップリンなどは、まだ、上映される機会も多いほうだったが、いつでも見られるというわけにはいかない。それに、サイレント映画は、弁士がいるのが基本だから、それも課題だったと思う。
81年、コッポラが企画したということで、モノクロ・サイレント映画『ナポレオン』を生オーケストラつきで上映したことがあった。しかし、こういった企画がなければ、これらの古い映画を見る機会は、かなり少なかったのだ。
そして、84年ジョルジオ・モロダーは、モノクロ・サイレント映画『メトロポリス』に色をつけ、かつ、オリジナルの音楽をつけて、上映した。
しかし、それを見ることもできなかった。見に行きたいなと思っているうちに、上映期間がすぎてしまったのだった。
そして、新しい出会いは、クイーンの「レディオ・ガ・ガ」のプロモーション・ビデオで訪れた。「レディオ・ガ・ガ」は1984年にシングルとして発表され、同年発売のアルバム『ザ・ワークス』に収録されている。レディー・ガガは、自分の名前の由来はここから来たと語っているらしい。
そして、ここに出てきた言葉「ビデオ」である。「プロモーション・ビデオ」という言葉も生まれた。
テレビを録画できる機械「ビデオ」が発売されていた。また、音楽を映像つきでみる「プロモーション・ビデオ」というものも普及しはじめてきた。クイーンは、この「プロモーション・ビデオ」に力を入れていたのだ。そして、わたしは、このビデオがテレビで放送された時に、はじめて、『メトロポリス』の画像の一部を見たのだ。
フレディ・マーキュリーは、モロダー版『メトロポリス』の中で「メトロポリス」というタイトル曲を歌っている。その関係で、映画の画像を使用できたようだ。わたしは、その映像の虜になった。
しかし、モロダー版『メトロポリス』を見る機会は、もっとあとになった。
話が長くなってきたのではしょる。わたしはLDでモロダー版『メトロポリス』を見た。LDとは、ビデオの次に出てきた映像メディアのひとつ。30cmLPとおなじサイズの銀色の円盤型をしていた。大きなCDといった感じだ。今は、どこの企業も生産していない。
その後、DVDが発明され、今ではブルーレイ・ディスクというメディアも生まれた。
モロダー版『メトロポリス』は、現在日本では販売されていない。輸入盤のDVDはあるようだが、リージョン1のため、一般の日本製のDVDプレーヤーでは再生できない。パソコンなどで工夫すれば、見ることはできる。オリジナル版『メトロポリス』は、簡単に見ることができる。しかし、世界中で新しいフィルムが発見されたりしているため、さまざまなバージョンがある。できるだけ画像の状態がよいものを選んで見ることをおすすめする。
さて、ジョルジオ・モロダーについて。
音楽の分野で、わたしが彼を意識したのは、ドナ・サマーの「愛の誘惑」だ。機械的なビートにのって、艶かしいささやきが続くというディスコ・ミュージックで、一世を風靡し、「ディスコの女王」と呼ばれた。
その後の快進撃は、多岐にわたる。映画の世界でも活躍し、『フラッシュダンス』、『ネバーエンディング・ストーリー』、『トップガン』、『オーバー・ザ・トップ』などを手がける。
個人的には、デヴィッド・ボウイと組んだ『キャット・ピープル』やスパークスをプロデュースした『No. 1 In Heaven』(1979年)などが、印象深い。
これらについて話し始めると、また、一晩、お付き合いいただかねばならなくなるので、この辺で終了する。
今回の来日を機会に、ジョルジオ・モロダーをもう一度、再確認してみたい。
そして、やはり、便利になったメディアや技術に、感謝しなければなるまい。[次回5/1(水)更新予定]
■公演情報は、こちら
http://www.billboard-live.com/pg/shop/show/index.php?mode=detail1&event=8520&shop=1