パクさんの粘りは超人的だった。会社のえらい人たちに泣きつかれ、おどされながら、大塚さんもよく踏んばっていた。ぼくは、夏のエアコンの停まった休日にひとり出て、大きな紙を相手に原図を描いたりした。会社と組合との協定で休日出勤は許されていなくてもかまっていられなかった。ぼくはこの作品で仕事を覚えたのだ。
初号を観おえた時、ぼくは動けなかった。感動ではなく驚愕にたたきのめされていた。会社の圧力で「迷いの森」のシーンは、削れ削れないの騒ぎになっているのは知っていた。パクさんは粘り強く会社側と交渉して、ついにはカット数からカット毎の作画枚数まで約束し、必要日数まで約束せざるを得なくなった。当然のごとく約束をはみ出し、その度にパクさんは始末書を書いた。いったい、パクさんは何枚の始末書を書いただろう。
ぼくも手いっぱいの仕事をかかえて、パクさんの苦闘によりそうひまはなかった。大塚さんも会社側の脅しや泣きおとしに耐えて、目の前のカットの山を崩すのがせいいっぱいだった。
初号で、ぼくははじめて「迷いの森」のヒロイン、ヒルダのシーンを観た。作画は、大先輩の森康二さんだった。
なんという圧倒的な表現だったろう。なんという強い絵、なんというやさしさだったろう。これをパクさんは表現したかったのだとはじめて判った。
パクさんは仕事をなしとげていた。
森康二さんもかつてない仕事をしとげていた。
大塚さんとぼくはそれを支えたのだった。
「太陽の王子 ホルスの大冒険」公開から30年以上たった2000年に、パクさんの発案で「太陽の王子」関係者のあつまりが行われた。当時の会社の責任者、会社と現場との板バサミで苦しんだ制作進行、作画スタッフ、美術、トレース彩色の女性達、技術課──撮影、録音、編集の各スタッフが沢山集まってくれた。もう今はないゼロックスの職場のなつかしい人々の顔もまじっていた。
偉い人達が、あの頃はおもしろかったなぁと言ってくれた。「太陽の王子」の興行はふるわなかったが、もう誰もそんなことは気にしていなかった。
パクさん
ぼくらはせいいっぱいあの時生きたんだ。
膝を折らなかったパクさんの姿勢はぼくらのものだったんだ。ありがとうパクさん。
55年前に、あの雨あがりのバス停で声をかけてくれたパクさんのこと、忘れないよ。
※週刊朝日 2018年12月21日号