──まるでドラマのような展開ですね。
私も長年、男性を見てきておりますので、だいたいのことは想像していましたが、野崎社長に恥をかかせてはならないと思い、やんわりとお断りをしました。すると、野崎社長は覆いかぶさるように抱きついてきたので、反射的に「やめてください」と突き飛ばしてしまいました。野崎社長の眼鏡は飛び、少し怒ったような表情になり、その瞬間、私は「実家は競売にかけられてしまうだろう」と覚悟をしました。「弟が迎えに来るので帰ります。やはり家は競売にかけますか?」と聞くと、「考えておく」と。気まずい雰囲気になりましたが、帰りも実家まで車で送ってくれました。
──その後、ご実家は競売にかけられたんですか?
翌日に私から連絡をすると、事務員から「競売は取り下げました。ゆっくり毎月返済してくれればいいですよ」と言われ、本当に安心したことを覚えています。その半年後、野崎社長から一本の電話がかかってきました。「東京に進出したいから仕事を手伝ってくれませんか?」。それから野崎社長が亡くなるまでのおよそ30年間、私たちの関係は続くことになるのです。
──どんな仕事ですか?
東京での仕事は会社のチラシが入ったティッシュ配りから始まりました。東京駅前、新宿、丸の内など、人が多く集まる場所で、野崎社長と一緒に雨の日も風の日もティッシュを配り続けました。野崎社長は都内にあるホテルを事務所代わりにしていて、和歌山と東京を行き来しながら、自らティッシュを配り、貸金業をしていました。主に大学教授や医者といった堅い職業の人が多かったので、回収はそれほど難しくありませんでした。私もまだ小学生にもならない子供を連れて、茨城や群馬まで集金に行きました。幼い娘を車に残して、「ママは集金に行くから、帰ってこなかったら警察に電話するのよ」と言い残して集金に行ったこともあります。たいてい集金に行くと1万円を頂いておりました。みなさんが想像するような大金は頂いておりません。
──他の女性に対しては?
私以外の女性には大金を使っていました。私は背が高くないから彼の好みではなかったのでしょう。旅館で手を出されそうになって以来、私には手を出そうとしませんでした。それなのに女性のお世話をすることも私の仕事の一部でした。ある日、東京で出会ったお気に入りの女性が、「電話に出てくれなくなった」と野崎社長が泣きついてきました。そんなときは私が女性に電話をして、「電話に出たら5万円をあげるって言っているから電話に出てちょうだい」とお願いするんです。ナンパの成功率は決して高いわけではありませんでしたので、遊郭街に車で送っていくことも少なくありませんでした。店から出てくるまで何時間も車で待って、やっと出てきたと思ったら、「すまん、すまん。よかったからもう一人頼んじゃった」と笑っていました。そのときは「ふざけんな」って思うのですが、女性がいないと不機嫌になるので我慢していました。
(聞き手 朝日新聞出版・竹内良介)
※週刊朝日2018年10月26日号