「葬儀の時に父のメガネが棺に入っていたのを今でもハッキリ覚えています。事件の時とは別のメガネだったのでしょうね」
五十嵐氏は晩年、イスラム世界の健康観、生命観に惹かれていた。
「イスラムというと砂漠地帯を思い浮かべがちですが、父は生前、中東を通すとヨーロッパがよく見えると言っていた。中世アラビアの医学書『医学典範』(イブン・スィーナー著)の翻訳を手がけていた。そういう意味では、私が今研究している医療に通じるものがあるのかなと思います」
五十嵐氏が亡くなったのは44歳。中氏は38歳とだんだん父の年齢に近づいてきた。
「父の年齢まであと6年。カウントダウンに入っています。亡くなって27年たっても、生前の父の話を聴かせてもらえるのは嬉しいことです」
9年前の2009年の初夏。記者は雅子夫人に付き添って、茨城県つくば市のつくば中央署に遺留品を引き取りに行った。
つくば中央署では、五十嵐氏が身につけていたものや研究室にあった遺留品の数々を保管していた。時効を過ぎたため、段ボール2箱の遺留品を雅子夫人に返却したのだった。
段ボールの中にはバッグ、メガネ、財布、スケジュール帳、演劇のビデオ、名刺入れ、紙片……など数10点の遺留品が入っており、1つ1つがビニール袋に入れられ、通し番号がふられていた。
事件当日、襲ってきた犯人に対して、五十嵐氏はとっさに茶色い革のバッグで防御したようだ。バッグの表面には鋭利な刃物で切られた跡がいくつも残っていた。カフスボタンは引きちぎられ、壊れていた。愛用していた黒ぶちメガネは両方のレンズとも、点々と血痕がついていた。
「黒ぶちメガネは夫の顔の一部。つくば中央署から返してもらって、段ボールの中を見て、あっ、メガネはここにあったのかと思いました。夫のメガネはずっと、行方不明だったので」
事件は「怨恨」「悪魔の詩にまつわる思想的犯行」の両面から捜査が行われた。
五十嵐氏のスケジュール帳には事件当日、ボールペンの文字でと書かれていた。何を意味する数字と記号だったのか。
事件当時、筑波大学4年生で教え子だった伊藤庄一さんがその答えを教えてくれた。