東尾修(ひがしお・おさむ)/1950年生まれ。69年に西鉄ライオンズに入団し、西武時代までライオンズのエースとして活躍。通算251勝247敗23セーブ。与死球165は歴代最多。西武監督時代(95~2001年)に2度リーグ優勝
東尾修(ひがしお・おさむ)/1950年生まれ。69年に西鉄ライオンズに入団し、西武時代までライオンズのエースとして活躍。通算251勝247敗23セーブ。与死球165は歴代最多。西武監督時代(95~2001年)に2度リーグ優勝
この記事の写真をすべて見る
コンディションの重要性を現役時代から認識していた衣笠さん(c)朝日新聞社
コンディションの重要性を現役時代から認識していた衣笠さん(c)朝日新聞社

 西武ライオンズの元エースで監督経験もある東尾修氏は、元プロ野球・広島カープの選手で「鉄人」と異名で親しまれた衣笠祥雄氏の死を悼む。

【写真】連続試合出場の世界新達成時の衣笠祥雄さん

*  *  *

 元広島で2215試合連続出場の日本記録を持つ衣笠祥雄氏が4月23日夜、上行結腸(じょうこうけっちょう)がんのために都内で死去した。71歳は早すぎる。訃報(ふほう)を耳にして、すぐには言葉が見つからなかった。

 私はパ・リーグの選手だったから、シーズン中の対戦はない。ただ、オールスターや日本シリーズで何回か対戦した。1975年のオールスター第2戦で、私は2番手で登板したが、衣笠さんは1打席目はフォアボールだったと記憶している。前日の第1戦では、山本浩二さんと衣笠さんが2打席連続で本塁打を放ち、警戒心があったのかもしれない。私は山本さんを抑え、衣笠さんと対戦せずにマウンドを譲った。私が10回、衣笠さんが13回オールスターに出場しているが、不思議と対戦機会は少なく、調べてみたら84年に2打席対戦し、最初に左前に安打され、次は遊飛に抑えていた。

 史上初の日本シリーズ第8戦までもつれ込んだ86年の広島との対戦。私は3試合に先発したが、衣笠さんにはほとんど打たれなかった記憶がある。調子が悪かったのかな。ただ、肌で感じたことがある。

 私は周囲から“ケンカ投法”と言われたが、内角を意識させて、外のスライダーを生かす形だった。与えた165死球はプロ野球最多だ。しかし、衣笠さんも死球数は歴代3位の161死球。対戦して感じたのは、内角に逃げずに踏み込んでくると同時に、絶対に体の右サイドに死球を受けない、避けるうまさ、懐の深さがあるということだ。

 右打者は打ちにいって、早く体が開き、右手を含めて右サイドに当てることが一番良くない。だけど、衣笠さんは、踏み込んでいきながら、クルッと体を反転して背中などに死球を受けることができる。投手からすれば、“ある程度はよけてくれる”という安心感があるからこそ、思い切ってつける。そして、死球に対して声を荒らげることのない紳士的な姿勢。あの姿は、リーグが違っても、ずっと尊敬の念を抱いていた。投手からすれば、抑えても、打たれても、すがすがしい勝負ができる打者だったと思う。

次のページ