スーツ姿に、ひげはそりたて。桐生祥秀(東洋大4年)が9月9日の日本学生対校選手権男子100メートルで9秒98を出す約3週間前、コーチと3人で食事をしたときの彼は、競技場で見るワイルドな感じではなく、小ざっぱりとしていた。服や時計が大好きで、いわゆる「おしゃれさん」である。
ロンドンで開かれた世界陸上の男子400メートルリレーで銅メダルを獲得し、帰国した直後だった。トンカツを食べながらリレーの走りをほめたところ、返ってきた言葉は意外だった。
「モチベーションが上がらなかったんですよね」
理由は簡単。個人種目の100メートルに出場できなかったからだ。典型的な負けず嫌いである。そして、気分屋でもある。6月の日本選手権で4位に沈み、世界陸上の100メートル出場権を逃すと、練習をやらないときもあった。
「こういう時どうしたらいいんでしょうね。練習する気になれないんです」
桐生がそうメールを送ったのは京都・洛南高時代の恩師、柴田博之監督だった。返信は「練習やるしかない」。背中を押されて、練習に集中した。50メートルのダッシュを70本繰り返す日もあった。20本もやれば十分だから、異例の多さだ。
高校3年のとき10秒01を出してから、「日本人初の9秒台」という期待を背負ってきた。レース後は「勝つことが目標」「世界で戦える選手になりたい」。不自然なくらいに9秒台という言葉を使わなかった。
大学1年のとき、一緒に焼き肉を食べにいった。「なぜ9秒台の目標を口にしなかったのか」と疑問をぶつけてみた。彼は素直に答えてくれた。
「本当は早く9秒台を出したかったんです」「早く9秒台を出して車の仕事でもしたいと思ってるんです」
レース後に記者の質問に丁寧に答え、ちょっと大人な雰囲気を漂わせるいつもの桐生の姿ではなく、9秒台の重圧に苦しむ少年の姿がそこにあった。
冒頭の食事の場面で、日本学生対校選手権に向けてこう言っていた。