天皇陛下の学友で元共同通信社記者の橋本明さんが亡くなった。東京都内で8月24日に葬儀が営まれ、喪主の長男・学さんは参列者へのあいさつで、陛下との思い出を述べた。
「ジャーナリストの父は自らを、殿下(明仁天皇)のスポークスマンと自任していました。余計なことまで話してずいぶん叱られたり、疎んじられたこともあったようですが、父は殿下の人間的な一面を世間に伝えることに信念を持って取り組んでおりました」
橋本さんは、戦前の学習院初等科時代から戦後の大学時代まで、皇太子だった明仁親王の同級生だった。忌憚(きたん)なく意見を述べ、陛下の学友として、けんかをしたことで知られた。
橋本さんと陛下をつなぐエピソードで有名なのは、高等科時代の「銀ブラ事件」。目白の清明寮に住んでいた明仁皇太子から銀座に行きたいと相談された橋本さんは、お目付け役をけむに巻いて皇太子を脱出させる。仲間と銀座の街に繰り出して、大騒ぎになった。
1956年に共同通信社に入社。59年の皇太子さまと美智子さまのご成婚を取材した。海外勤務を経て、退社後はジャーナリストとして活動した。『平成皇室論』『知られざる天皇明仁』など皇室に関する著作が多く、陛下の素顔を伝えるべく発信を続けた。
2007年には、美智子さまがご成婚前に陛下に綴った手紙を『美智子さまの恋文』として出版。橋本さんの友人、日本地方新聞協会会長代行の光永勇さんはこう振り返る。
「当初、陛下は出版に反対し、出す出さないをめぐって橋本さんと応酬があったと聞いています。最終的に、陛下がすべてチェックすることになったそうです。橋本さんの鞄には、陛下との原稿のやり取りのファクスのぶ厚い束が入っていたのを覚えています」
立場の違いはあれど、橋本さんには、戦争をともに体験して戦後日本を担ってきた学友としての思いがあった。昨年8月の陛下の「退位宣言」に複雑な思いを抱きつつも、「自分は機械・ロボットではない、人間だという思いが込められている」と陛下の心情を察した。
献身的に看病した妻の敬子さん(70)は、橋本さんの思いをこう振り返る。
「女性宮家の創設を進めようとしない政府に対して、このままでは悠仁さまがおひとりになってしまうと、夫は皇室の将来に心を痛めていました。皇統の維持のため、『悠仁さまが即位するまで、愛子さまが天皇になってもよいのではないだろうか』と口にしたこともありました」
陛下と忌憚なく意見をぶつけ合った橋本さん。6月に入院し、その後容体が悪化。8月13日に、84歳で生涯を閉じた。
※週刊朝日 2017年9月8日号