ジョン・コルトレーン『ブルー・トレイン』
ジョン・コルトレーン『ブルー・トレイン』
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●名盤はジャズ・ファンの回春剤

 ジョン・コルトレーンの『ブルー・トレイン』について、あれこれ綴ってきた本章もいよいよ大団円を迎えました。いやー、思えば長かった。そして大変な勉強になりました。私がジャズに関する文を書き始めてから四捨五入でもう20年が経ちますが、その間、こんなに特定のアルバムを集中的に再生したことはありませんでした。ライターとしてベテランになりつつある時に(気持ちはいつも新人のままですが)、繰り返し『ブルー・トレイン』を聴く機会を持てて本当に良かった、と清清しい気分でいっぱいです。

 それと同時に、私は深い感慨にも包まれました。ジャズが好きになった直後に抱いた、あの“ときめき”を思い出したのです。ジャズ・リスナーの道を歩み始めた頃の私は3ヶ月に一度LPレコードを買うのが精一杯の経済状態で、そのため同じ作品を何度も何度も繰り返し聴いたものでした。往時の記憶がまざまざと蘇り、“初心忘れるべからず”という大きな掛け軸が目の前にドーンと迫ってきたような気持ちに何度となくおそわれたのですから、名盤の力とはなんと強いものでしょうか。2007年から08年にかけての『ブルー・トレイン』大量摂取は、私にかけがえのない養分を与えてくれたようです。

 もちろん、これは『ブルー・トレイン』の内容が卓越しているがゆえのことでもあります。明日には忘れ去られてしまうような凡百盤を繰り返しかけたところで得るものがどのくらいあるかは疑問ですし、だいいち何度も聴けばそんなもの、飽きてしまってジャケットすら見たくなくなるに違いありません。

 さて、この章では『ブルー・トレイン』のポイントを7つにわけ、解説を加えておりますが、今回は

(6)参加メンバーはコルトレーンの親友ばかり

 リー・モーガン(トランペット)、カーティス・フラー(トロンボーン)、ケニー・ドリュー(ピアノ)、ポール・チェンバース(ベース)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラムス)

(7)いわゆる“シーツ・オブ・サウンド”の確立

 の2点について、項を進めてゆきましょう。

●気心の知れた仲間たちとの“一期一会”

 『ブルー・トレイン』には1957年当時、ニューヨークで活躍する最先端のジャズ・ミュージシャンが集まっています。コルトレーンはこの録音時期、セロニアス・モンク・カルテットの一員としてライヴ活動を繰り広げていましたが、それ以前に所属していたマイルス・デイヴィス・クインテットではチェンバース、ジョーンズと僚友でした。フラーは57年春にデトロイトからニューヨークに進出してきたばかり。“ハード・バップに対応できるトロンボーン奏者”として、弱冠22歳の彼はたちまち売れっ子になりました。ドリューもこの前年、ロサンゼルスから生地ニューヨークに戻ってきたところ。天才少年モーガンにしてもフィラデルフィアを離れてニューヨークに拠点を移してから、まだ1年も経っていませんでした。

 『ブルー・トレイン』成功の背景には、彼ら若き地方出身者の“大都市で一旗あげてやるぜ”パワー、“都会者になめられてたまるか”的ツッパリ精神もあったのではないか、と思うのは私が田舎育ちだからというだけではないと思うのですが…

 参考までに『ブルー・トレイン』参加者の関連アルバムを一部、挙げます。

1956・3 『チェンバース・ミュージック/ポール・チェンバース』(ジャズ・ウエスト) コルトレーン、ドリュー、チェンバース、ジョーンズ

1956・5・11(&10・26) 『ワーキン』『リラクシン』『スティーミン』『クッキン』(プレスティッジ。以上マイルス・デイヴィスのリーダー作)  コルトレーン、チェンバース、ジョーンズ参加

1956・9・20&26 『ケニー・ドリュー・トリオ』(リヴァーサイド) ドリュー、チェンバース、ジョーンズ

1957・4・6 『ア・ブローイング・セッション/ジョニー・グリフィン』(ブルーノート) モーガン、コルトレーン、チェンバース参加

1957・6・2 『クリフ・ジョーダン』(ブルーノート) モーガン、フラー、チェンバース参加

1957・9・1 『ソニーズ・クリブ/ソニー・クラーク』(ブルーノート) コルトレーン、フラー、チェンバース参加

 日常的にスタジオで顔を合わせていた(ジャム・セッションなどではもっと頻繁につるんでいたと思われます)面々ばかりであるはずなのに、6人全員が一堂に会したのは『ブルー・トレイン』のレコーディングが最初で最後でした。この関連アルバム・リストは、“なんともいえないリラックスした雰囲気”と“背筋を正されるような緊張感”が、なぜ『ブルー・トレイン』の中で共存できているのかを解く鍵となるはずです。

●シーツ・オブ・サウンドの第1号

 55年にマイルス・デイヴィス・クインテットへ参加した頃、コルトレーンのプレイには批判が集中したといわれます。いわく“何を吹こうとしているのかわからない”、“単なるヘタクソ”などなど。しかし『ブルー・トレイン』が録音された頃になると批判も激減し(猛烈な練習によってプレイに安定感が増した)、その奏法はジャズ・テナー・サックスの新しい潮流として認められ始めました。まるで奔流のように数多くの音を次から次へと、アルペジオ状に放つコルトレーンのアドリブ・スタイルは、50年代末になると多くの追随者を生むことになります。58年には評論家のアイラ・ギトラーが、彼の演奏を“シーツ・オブ・サウンド”(音の敷布)と形容しましたが、『ブルー・トレイン』は57年秋の時点で既に、コルトレーンの敷布がこれ以上ない形で織り上げられていたことを雄弁に訴えています。