ジョン・ゾーン『ネイキッド・シティ』
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●宍戸錠、ロマンポルノ、ハード・バップを愛するアメリカ人

 気がつくとバカボンのパパと同じ年齢になってしまいました。

 昨年は「マカロニほうれん荘」の、きんどーちゃんと同い年でした。来年は本厄です。物忘れもひどくなってきました。上戸彩のことを何度、綾戸智恵と呼んでしまったことか。昨日のことはまるで覚えていないのに、頭の中にヴィヴィッドに蘇ってくるのはもう20年も前、自分が10代や20代だった頃の日々です。

 1980年代後半、ひとりの“異才”がジャズ界に忽然と現れました。いや、彼自身はその前からニューヨークの音楽シーンでブイブイ言わせていたのです。それが日本に伝わり、ジャズ雑誌をにぎやかすようになったのが80年代後半だったというわけです。

 その名はジョン・ゾーン。ソニー・クラーク・メモリアル・カルテットというバンドでハード・バップを演奏し、さらにギター、トロンボーンとのトリオでハンク・モブレーやケニー・ドーハムの渋めのオリジナル曲を解釈。さらにアヴァンギャルド音楽の作曲もこなし、オルガン・ジャズにも詳しく、日活映画(アクションものもロマンポルノも。『スピレーン』というアルバムでは宍戸錠の写真を使った)のマニアで、アルト・サックスもむちゃくちゃ達者という、“よくわかんないんだが、とりあえず「すごい奴」ということだけはわかる”存在が、まだ10代だった私の感性にズカズカと入り込んできたのです。

●旧・新宿ピットインが轟音にまみれた

 東京で暮らして行こうと決めたとき、真っ先に生で聴こうと思っていたアーティストのひとりがジョン・ゾーンでした。とにかく多才でつかみどころがない、だから実物に接して、なんとか「つかみどころ」を得たいと思ったのです。彼を最初に聴いた場所はたぶん、改装前の新宿ピットイン。ビル・ラズウェル(ベース)、ミック・ハリス(ドラムス)との“スラン”というユニットでした。

 細かいことは殆ど覚えていませんが、とにかく音がやかましいこと、1曲が数十秒の短さだったことは今も忘れられません。ゾーンはアルト・サックスの朝顔をマイクに突っ込んで、すさまじい轟音を出していましたが、そのいっぽう、ひざでサックスの朝顔を押さえたり、マウスピースだけを使ったり、ありとあらゆる方法でいろんなトーンを放出していました。それはまるで、アルト・サックスという、歴史のある、美しい音を出す楽器からどれだけノイジーで新しい音響をひねり出すかという命題に取り組んでいるかのようでした。

●“ネイキッド・シティ”と扉のないトイレ

 その次にジョン・ゾーンを見たのは、法政大学で行なわれた“ネイキッド・シティ”というユニットのライヴでした。今はすっかりきれいになった法大ですが、当時はまだ学生運動の名残も生々しく、ボロボロの壁、なにか政治的なことが書かれた落書き(詳細は覚えていない)なども健在で、トイレにはドアがありませんでした。私は高校もロクに行っていないので大学生活など想像しようにも想像しきれないというのが本音です。ゆえに、私にとって当時の法大は「ただ怖いところ」、「得体の知れないところ」でした。そこにジョン・ゾーン、ビル・フリゼール(ギター)、ウェイン・ホーヴィッツ(キーボード)、フレッド・フリス(ベース)、ジョーイ・バロン(ドラムス)が来たのです。

 アルバム『ネイキッド・シティ』は、輸入盤では既に出ていたと思います。目まぐるしくテンポや曲調の変わる曲、始まったと思ったら終わってしまう曲、日本の誇る鬼才である山塚アイの美声をフィーチャーした曲など、盛りだくさんの内容で、ぼくはこの作品でさらにジョン・ゾーンに惹かれてしまいました。

 が、ライヴはさらに強烈でした。CDでは編集でつないだとしか思えなかったほど難易度の高い曲を目の前で易々と演奏し、ゾーンと山塚がヴォイス・バトルを繰り広げ、ホーヴィッツがオルガンでブルースを撒き散らし、フリゼールときたらファンク~アヴァンギャルド~サーフ・ミュージックを横断しつつ、1曲のなかでギター・ミュージックの世界一周を試みているかのようです。

「ああ、俺は今の音を聴いている! 今の音が創られている場所に立ち会っている!」。その余韻と感動は家に帰っても消えず、友人たちにジョン・ゾーンのCDを無理やり押し付ける日々がしばらく続きました。もっとも彼らはそれでジャズ・ファンになるというわけでもなく、パンクや(いまでいうところの)オルタナティヴ・ロックへの愛情をさらに深めていったようですが。

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