一説によれば信長は数百振りもの刀剣を収集したほどの愛刀家だったそうだが、「義元左文字」はなかでももっとも気に入っていたひと振りだったという。
信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、戦利品として手に入れた「義元左文字」を、天下布武を支えた「愛刀三振り」のひとつとして生涯手元に置き、愛でた。
「刀を勝利の象徴として扱う意識はあったでしょうね。信長が義元左文字を得たことは、天下を取る正当性のシンボルのようなものだったのでしょうね」(同)
「義元左文字」は、もとは三好政長(三好宗三)が所持していた刀剣だが、甲斐の武田家に渡り、武田信虎の娘が今川義元に嫁したときに引き出物として今川家に伝来した。
将軍家にも通じる義元であったが、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、尾張の信長が台頭する状況を知り、焦りがあった。そして永禄3(1560)年、尾張へ侵攻する際、桶狭間で信長の急襲にあい、討たれるのである。
「桶狭間の戦いでは、信長自ら先陣を切って勢いだけで攻めこむような姿がよく描かれますが、本当は、しっかり作戦を立てて攻め入ったはずです。このとき、織田軍の兵の一部が、数の上で有利で、織田よりずっと勢力の大きい今川方に寝返っても不思議ではないように思えるのですが、不利な信長を裏切るものは誰もいなかった。みんな信長と死ぬ覚悟で戦ったんですね。それだけ信長には人望があった。それが後に刀という恩賞に象徴され、絶大な力につながったのかもしれません」(同)
「今度分捕に義元不断さされたる秘蔵之名誉の左文字の刀召し上げられ何ケ度もきらせられ信長不断ささせられ候成」(『信長公記』)
こうして義元左文字は信長の手に渡った。
信長は2尺6寸あったこの戦勝記念の刀身を2尺2寸1分(67.0センチ)に磨(す)り上げ、「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀 織田尾張守信長」と金象嵌銘を入れた。年月日はいうまでもなく尾張国に攻め入ってきた今川義元を討ち取った日である。
しかし、天下を目前にした信長であったが、本能寺の変で自害する。