ところが僕は次第に、この観客の想念が背後から襲ってくるのを利用して絵を描いていることに気づき始める。その時、想念がエネルギーに変換して、そのエネルギーが僕の創造エネルギーと一体化して、思考を越えた境域で僕は観客によって描かされていることに気づくのである。それはどのような感覚かというと、思考が働かない感覚である。ただ筆を持った肉体が、脳を離れて、ひとり歩きをしているのである。脳の機能は完全に中断して、観念も言語も完全に僕の中から、肉体の外側へ放出してしまっているという不思議な感覚に襲われるのである。

 マラソンランナーがランニングハイになると聞くが、それに近い感覚かも知れない。筆は僕の思考を無視して、勝手に宙を泳いでいるように感じる。勝手に絵がひとり歩きしながら絵の好むように絵が絵の境地で遊んでいるような感覚である。

 公開制作で描いた絵と、アトリエで描く絵は全く違う。何が違うかというと、公開制作の絵の方が、うんと自由な表現をとっている。アトリエで描く場合は逆に思考が邪魔をするが、公開制作では思考は僕の外部にあって、内部は空洞化した状態で、最も創造的な瞬間を演出してくれる。思考に左右されている間は、自分が脳にしばられているので、なかなか自由になれない。それが公開制作で、他者に肉体を晒し、自分の中で隠すものがなくなるために、自分自身が快楽と自由を獲得しているのだろうか。とにかく解き放たれた状態の持続する時間の中で好き勝手放題になれるのである。

 つまり、いつの間にか自我から解放されているのだ。観客がいるにもかかわらず、観客意識がない。たかが絵じゃないか、上手いか、下手かしかないのである。究極的にはどうでもよくなってしまうのだ。もっといえばヤケクソになって描いているのだ。時には手抜きもするが観客は全く気づかない。世阿弥が橋掛かりから舞台に行くまでの間に観客の心理を読んでしまう。今日の観客は質が高いか、低いかを一瞬で察知してしまうらしい。そして大した観客ではないと思えば手抜きの演技を見せるらしい。高度な演技を見せても、相手は理解できないからだ。

 まさか、公開制作で、このような観客の判断は僕にはできない。なぜなら能のように観客に見せるために、描いているわけではないからだ。第一、自分の絵が質が高いか低いかもわからない。そこは僕が演者でないからだ。

 つまり画家はサービス精神で描いているわけではないのである。

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰

週刊朝日  2023年2月24日号

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