作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。北原氏は、地震で避難生活を送る女性たちが安心して過ごせるよう、行政に配慮してほしいという。

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 ある日突然、震災によって大切な人を失う、ペットを失う、家を失う、そのような体験を、わずか数年の間に、どれだけ多くの方々が味わってきただろう。地震の国に生まれた者として、震災は我が身にもふりかかることではあるけれど、激しい余震の中、避難生活を余儀なくされている方々の痛みを思えば言葉を失う。

 情報を得たくて、テレビをつける。たった数個のおにぎりを手にするために数時間並ばなければいけない人々が映し出される。お年寄りが「家に帰りたい」と訴える。そういう“情景”をテレビで観ていることが、後ろめたくてテレビを消す。その繰り返し。

 テレビで若い男性レポーターが張り切って話していた。「避難所では、女性ならではの悩みがあります!」と。女性ならではの悩み? 思わず耳を傾ける。「衝立がないから着替えができないのです」「トイレが使えないので、そこら辺でするしかないと仰る女性もいました」。彼はまっすぐな眼差しをカメラに向け、痛ましい表情で語る。「女性ならではの、このような悩みがあるのです!」

 サラリと聞き逃すことができなかった。もし男の人が避難所のどこでも着替えられ、どこでも排泄できると思えるのだとしたら、それは何故なのか。そのことを考えてしまう。長年、女としてこの社会に生きている実感としては、避難中の“女性ならでは”の苦しみは、“私たちが着替えられない”ことではなく、むしろ男が衝立なしに堂々と着替え、躊躇(ちゅうちょ)なく排泄することの方なのではないか。あまりにも「自然」とされる男性の性を、様々な形で見せつけられることなのではないか。

 
 人々が最も痛み苦しんでいる最中、残念ながら、そのような時だからこそ、弱っている者にふるわれる暴力が加速することもある。特に、女性や子供に向けられる性暴力は、被災者どうしが一致団結することを求められる中で、告発されることなく葬られてしまう。阪神・淡路大震災の時も、東日本大震災の時も、性暴力は起きた。小さな子供を抱えた女性が食事の配給の列に並べず、代わりに並んでくれた近所の男性が、夜になると当然という顔で布団に入ってきた。幼い子に性器を見せたがる男性もいた。幼女の着替えを注視する男性もいた。女性団体による調査報告では、そのような告発を数多く目にする。それでも多くの被害者が明日を生きるために口を噤み、加害者自身が「自然な性欲」として加害意識が低く、目撃者も空気を乱さぬように見ぬふりをしてきた。残念ながら、人は弱い。だからこそ、こういう暴力が起きるという事実を事実として、知らなくてはいけない。

 行政の方にお願いしたい。すぐにプライバシーを確保できる生活空間の提供と、性暴力に対応できる専門家を派遣してほしい。弱っている状況で、性的に貶められることは、人に深い痛みとして残る。知識と教育と環境で避けられることは避け、今、多くの人が集う空間を、誰もが安心して過ごせるよう、配慮してほしい。

週刊朝日 2016年5月6-13日号