
日本を統一し、平和をもたらした徳川家康。その成果は各戦国大名を従えただけではなく、民衆の意識をも変えたことだ。そこには人口移行という空前の策があったと、徳川宗家19代目・徳川家広氏は説明する。
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日本の民衆は、豊臣秀吉から「人はどこまでも出世出来る」ことを学んだ。
身分固定による身分保障を通じて恒久平和すなわち永久政権を目指す徳川家康にとって、これだけでも頭の痛い話である。もう一つの問題が、唐入り、朝鮮出兵の後始末だった。
朝鮮王国との和解自体も面倒臭かったが、さらに問題なのは、朝鮮で戦った武士たち、さらに海を越える形で動員された農民たちに「明も朝鮮も日本と比べれば弱体である」という認識が広がったことだった。じっさい、朝鮮は陸軍を明に頼り切っており、その明は兵士の戦闘力が日本兵の10分の1という体たらくだった(薩摩兵にいたっては、明兵100人分の戦闘力だった)。
日本から朝鮮半島へ渡った総兵力は20万人。そのうち4、5万人が戦闘、病気、事故などで死亡している。当時の日本の人口は1200万人強だったが、戦闘に参加したのは西日本の大名たちだけ、そして西日本のほうが人口が多かったから、母集団は800万から1千万人ということになる。一つの村から少なくとも一人は戦争へ行った計算ではないか。
そして帰還した武士たち、戦場から故郷の村へと戻った農民たちは、負け戦についてどう語ったであろう?
「朝鮮の人たちにひどいことをして慚愧(ざんぎ)の念に堪えない」
「戦争はこりごり」
こんなことは言うまい。
「敵兵は弱い」
「もう一度、不退転の決意で臨めば勝てる」
こうであろう。
つまり平和主義は、少数意見だった。徳川家康は、西日本全域に広がる戦争願望、反中・反朝鮮の感覚と闘わなくてはならなかったのだ。