戦旗派は何人も活動家を送るのに、沖解同は態勢が整わない。主導権は途中から戦旗派に奪われた。気がつけば知念は逃げ場を失っていた。
大学も中退し、職業革命家として生きるつもりでいた知念だが、出所時にその思いは消えていた。
看板屋や古書店など職を転々とした。そのたびに公安刑事が現れ、いたたまれず離職する。出所後は、その繰り返しだった。
今回、知念との面会を仲立ちしてくれたのは、沖縄大名誉教授の組原洋という弁護士であった。知念は一時、司法書士を志し、弁護士志望者の勉強会に出入りして、組原の指導を受けていた。
「でも当時から彼は精神的に参っていて、ほとんど酒浸りの状態でした」
皇太子への犯行や反天皇思想が原因で、周囲から白眼視された経験はない、と知念は振り返る。だが、傍らで組原は「そんなことはない」と、かぶりを振る。
「みんな直接は言わないけど、微妙な空気はありました。私だって大学教員として、あんな人間と付き合うのはいかがか、と言われましたから」
それでも、あの事件の受け止め方について、沖縄の世論に本土とは異なる寛容さがあったことは事実らしい。県警の内部にすら、犯行への共感を示す者がいた、という話が、現地では語り継がれている。
※週刊朝日 2016年2月5日号より抜粋