高校時代にベトナム反戦運動にかかわり、大学進学で上京、中核派に加わった。しかし、本土の視点から沖縄の「奪還」を訴える運動方針に違和感を覚え、内ゲバの横行にも幻滅して、沖縄出身者20~30人で示し合わせて脱退した。そして、さらに同郷人に呼びかけて、沖縄人だけのセクトを立ち上げた。
皇太子の沖縄訪問を“粉砕”する計画は、新団体・沖解同を華々しく印象付けるためのものだった。共闘の呼びかけに、戦旗派が応じた。あくまでも式典を妨げる示威行動。実行犯が2、3年服役する間、裁判の支援活動で運動を広げてゆくつもりでいた。
裁判で、知念らが問われたのは、礼拝所不敬と火炎瓶使用の罪。病院から物を投げたふたりの罪状も、公務執行妨害だけだった。「暴力行為で起訴すると、被害者の皇太子を裁判に巻き込むため、政治判断が下された」と受け止めた。知念の判決は、2年半の懲役刑だった。
支援運動が広がることはなかった。裁判の傍聴には2、3人の“同志”しか来なかった。「家族は巻き込まない」という申し合わせも反故にされ、訴訟費用の一部は知念の父親にも請求されていた。
それどころか、同志は徐々に四散して、沖解同は知念の服役中、事実上消滅した。
「そもそも実行犯役は、自分から名乗り出たのですか?」
知念の表情がまた曇った。
「実は、計画段階からメンバーはぽろぽろ抜けていったのです」