捕虜郵便とは、ハーグ条約の定めで、戦争捕虜が、母国の家族にあてて往復はがきを出すことができるもの。家族は返信用はがきで便りを出すことができた。

 佐藤さんの場合、最初の郵便の後、月に1通の割合で家族との間で交わされた。手元には計52通が残っている。現地の生活の詳細は書けないようだが、囚人護送車に閉じ込められて14回も収容所を転々としたことなどはわかった。

 53年12月、妻の敏子さんはこんなはがきを送った。

<私共、家の中のラジオで残留組の貴夫の氏名を発表された時は地獄の底に落ちる思いでした>

 54年1月、佐藤さんからの返信。

<無量の思い、想い、慮いをくみとって欲しい>

 56年9月10日付の佐藤さんの便りには、政治決着を待ちわびる心情が滲む。

<日ソ交渉、牛歩の如きも、落胆は禁物>

 同年10月19日、日ソ共同宣言が調印された。12月下旬に佐藤さんは、最後の引き揚げ者の一員として京都・舞鶴港に到着した。金沢さんは、当時住んでいた名古屋で11年ぶりに父と再会した。綿入れの黒い囚人服に白髪頭。歯は欠け、頬はこけていた。

「あと半月帰国が遅ければ、命を落としていたかもしれません」(金沢さん)

 その後、佐藤さんは、妻ら家族が待つ故郷の会津に戻った。夫婦は静かに目と目を合わせた。敏子さんは、新しい着物をそっと手渡し、親戚が待つ祝宴の座敷へ送り出した。

 佐藤さんは93年に94歳で亡くなった。その数日前、こう呟いたという。

「世の中の移り変わりを、もう少し見てみたかった」

 戦後70年を経て世界記憶遺産に登録された抑留者の記録。どう生かされてゆくのだろうか。

週刊朝日 2015年11月13日号より抜粋