編集部には多くの小冊子や手紙が寄せられた(撮影/写真部・長谷川唯)
編集部には多くの小冊子や手紙が寄せられた(撮影/写真部・長谷川唯)
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 戦後70年の今年、シベリア抑留・引き揚げに関する資料が、ユネスコの「世界記憶遺産」に登録された。本誌が募集した読者体験には、70通を超える手記が届いた。抑留について本人や遺族の証言を紹介する。

 大阪出身の杉本四郎さんは、中部第31部隊から満州に配属され、東安省林口(現・黒竜江省林口県)で20歳で敗戦を迎えた。バイカル湖から数百キロ離れたシベリア・タイシェットの捕虜収容所に抑留された。

 2004年に78歳で他界した杉本さんは生前、体験を小冊子「シベリヤ抑留の思い出記」にまとめていた。妻の愛子さん(88)が編集部に送ってくれた。

 小冊子によると、抑留生活もしばらくすると、各地の収容所に日本新聞が張り出され、こんな会話が飛び交ったという。

<堅苦しい文字が並んでいる、そんな中に「パンパン」という字が目に入った。「パンの増配か」「馬鹿」「アメリカ軍相手の淫売(売春婦)らしいぜ」>

 共産主義思想を唱える抑留者も増えたという。少し前まで兵隊をいじめていた軍曹が、「天皇に騙され、戦争に駆り出された」「ブルジョアや政治家を倒し、人民が人民のための国をつくる」と唱えた。杉本さんは呆れながらも、<それも生き抜く為の知恵かも>と思いを記す。

 一方で、流行歌を口ずさめば、反革命分子だとつるし上げを食らう。スパイが潜り込んでいるとの噂が流れた、とも書いている。

 シベリア抑留は、日ソが国交回復する56年まで続いた。戦後10年を経てもなお、抑留者と家族の苦しみは続いたのだ。

 8歳のときに満州から引き揚げた金沢るみ子さん(77)は、父が抑留された。

 父、佐藤健雄さん(故人)は満鉄調査部北方調査室室長だった。大学時代にボート部で鍛えた体格とスーツの似合う風貌が、金沢さんの自慢だった。敗戦後は満鉄総裁とソ連軍の通訳を務めていたが、ある日、消息がわからなくなった。父の部下が、ソ連兵に連行されたと教えてくれた。安否がわからないまま、46年に母と家族7人で帰国した。

 52年の夏、親戚宅に突然「捕虜郵便」とハンコが押されたはがきが届いた。シベリアの父からだった。

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