幸村は兄の信之と袂を分かちましたが、1673年、辰信の時代に、信之の子孫と再会したという記録が残っています。信之を初代藩主とする松代藩の3代・幸道が、愛媛にあった伊達家から正室をもらうことになり、その際、伊達の本家が後見人になりました。そこで、伊達屋敷に幸道が訪れ、供応の場で二人が対面したそうです。

 一方、大八の姉である阿梅は、のちに片倉重綱の後室になりました。重綱との間に子はありませんでしたが、片倉家3代目となる景長の養母となり、領民に長く慕われたそうです。また、阿菖蒲(おしょうぶ)は、重綱とは別の家系にあたる片倉家に嫁いでいます。阿菖蒲は墓所に父・幸村の墓を建てて供養しました。

 仙台真田家の屋敷は、明治維新のときになくなっていて、今はありません。鎧は代々、うちに残っています。これは真田昌幸から幸村に伝えられたもので、大坂冬の陣が終わってから大八に形見分けしたものでしょう。

 仙台真田家の文書は大量に残っています。いまは蔵王町の教育委員会に預けて、整理してもらっているところです。とくに大八から数えて9代、江戸時代末期から明治期の当主だった真田幸歓(喜平太)のころのものがたくさんあって、いま残っている仙台真田氏の家系図も、「古い家系図をもとに幸歓のときに編纂し直した」と、記録されています。

 片倉家とのつながりは代々ありますね。いまも、片倉家のご当主とは交流があり、双方の家が途絶えぬよう、後見しあう関係です。

 NHK大河ドラマの「真田丸」が来年始まるとあって、最近はイベントなどに呼ばれる機会も増えました。盛り上がりを感じています。

(本誌・鈴木 顕、森下香枝/カスタム出版・横山 健)

週刊朝日  2015年11月6日号