今から6年前に良忠の出身地・白石町を訪ねた時、私はある女性をインタビューした事がある。井崎萩子、亡き良忠の妹である。地元の料理店で食事しながら、彼女は半世紀以上も昔の兄の思い出を語ってくれた。
1947年9月上旬、実家の八坂神社に戻った良忠の元に萩子が見舞いにやって来た。社務所別棟の2階に寝ている兄の枕元に彼女は正座して座った。
ふと布団に横たわった良忠が萩子を見上げて「お前、今、幸せかい」と訊いた。それに彼女は頷きながら「うん、私は今、幸せよ」と答えた。すると良忠は細い声で「そうか」と言って笑ったという。
萩子は女学校を卒業後すぐに結婚したのだが、その3年前に夫が中国で戦死していた。そして数カ月前、幼い女の子を連れ再婚したばかりだった。何でもないやり取りに聞こえるが、戦争に翻弄された妹を思いやる姿が浮かぶ。その彼女が振り返る。
「じつは兄が亡くなった時、地元でも『あいつは気が狂っただけたい』という声があったんです。餓死してまで闇米に手を出さんのは異常すぎるというんです。でも東京から戻った後の兄は出された物は何でもよく食べとりましたよ」
良忠が闇の食糧を拒否したのはあくまで判事として働いた間だった。
職務を離れればもう良心の呵責に悩まずにすむ。まるで肩の重荷が取れたように配給以外の食べ物も口にしていた。
やがて10月に入って風が冷たくなる頃、良忠の容態は悪化した。言葉を発するのも辛く、東京から駆けつけた妻とも筆談でやり取りした。そして10月11日午後2時20分、まるで力尽きるように息を引き取ったのだった。
前述の通り、良忠の死が全国に知られたのは翌月の朝日新聞の報道がきっかけだ。記事を書いたのは当時の佐賀支局記者の分部照成である。分部は今年8月に95歳で亡くなったが、その直前に私のインタビューでこう語っていた。
「当時は敗戦直後で皆が虚脱状態でした。そこへ山口判事は『我こそが日本人だ』というのを見せた訳です。鍋島藩の葉隠精神を地で行った人ですよ。奥さんにも会いましたが栄養失調で病床に倒れてました。『私は主人を信じてついて行きました』と言っていました」
今回米国側の記録を調べて分かったが、良忠の死は米AP通信が東京発で配信し、ワシントン・ポストなどが掲載していた。
白石町のニュースが国際的反響を呼んだのだが、一方で彼を“馬鹿正直”と冷笑する者がいたのも事実だ。たかが闇の取り締まりくらいで死んでどうするという。そして良忠の家族を最も傷つけたのは片山哲首相の菊江夫人の言葉だった。
「家庭を守る女性の立場としては、多少のゆとりを持つて夫や子供の生命を守るべきだと考えます。畑の仕事を女の手で出来るだけやることなどでも大きな効果があります。奥さんにもう少し何かの工夫がなかつたものでしようか」(朝日新聞、1947年11月6日付)
まるで妻の矩子の気遣いが足りないから夫が餓死したと言わんばかりだ。妹の萩子によると、これを読んだ矩子はショックを受けノイローゼになってしまったという。
良忠への複雑な思いは地元も同じだった。当時の事情を知る人間によると、じつは白石町近郊の農家にも収穫した米を政府に供出せず独自に売りさばく者がいた。闇で売ればはるかに高値が付き、自宅を新築した者もいたという。その米どころで食管法を守った判事が死んだ。「あいつは気が狂っただけたい」という言葉は精一杯の自己弁護に聞こえた。これと直接関係あるか確認できないが、なぜか地元の佐賀新聞は当時、良忠の死について一言も触れていない。
そして、それは日本政府にも言えた。この年の夏、国会は隠退蔵物資等に関する特別委員会を設置している。戦時中、軍は民間から膨大な軍需物資を接収したが、敗戦直後にその多くが行方不明になった。旧軍関係者や政治家の関与も取り沙汰され、国ぐるみの闇取引が指摘された。食管法に苦しむ庶民を横目に、ごく一部の者は濡れ手に粟の利益を得ていた。その中で良忠は愚直なまでに法の精神を守っていたのだ。
※週刊朝日 2015年10月30日号