では人々はどうやって生きていたか。正規の配給以外のルートで食べ物を買いつける、いわゆる闇市場である。大都市の住民はすし詰めの列車で地方の農家を回り、わずかばかりの着物などを米や野菜と交換した。タケノコの皮を一枚ずつ剥ぐような「タケノコ生活」で、むろん食管法違反だ。見つかった場合は逮捕され食糧も押収、こうして捕まった者を裁くのが良忠の仕事だった。
山口良忠は1913年、佐賀県白石町で生まれた。彼の生涯を追った伝記『われ判事の職にあり』(山形道文著)によると、父親の良吾は地元の八坂神社の宮司で小学校校長も務める教育者だった。京都大学法学部に進んだ良忠は、1938年に司法試験に合格、横浜や甲府の勤務を経て大戦中に東京地裁に配属された。そして戦後の1946年10月、経済事犯担当判事に任命された夜、妻の矩子にこう告げたという。
「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない」「これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい」(山形の著書が引用した矩子の手記)
この1年後に良忠は亡くなるのだが、そもそも配給だけで生きる事は可能だったか。何がそこまで彼を追い詰めたのか。
良忠が判事に任命された同月、司法省は検事総長名で「経済取締の徹底強化」を命じている。同省は翌年3月にも経済関係の判検事会議を開いて闇撲滅を決議、その直後、全国一斉に列車の持ち込み荷物取り締まりが始まった。
この強硬さの裏には占領当局の思惑もあった。GHQは米国政府に、飢餓が発生すれば占領遂行に支障をきたすとして対日食糧輸出を要請していた。だが米国民の血税を使う以上、日本側も最大限の努力をせねばならない。闇撲滅はその一環でもあった。
だが現実に逮捕されるのは大物ブローカーどころか名もない庶民の方が多かった。夫が戦死し子供を抱えた女性なども容赦なく摘発されたが、10日以上の遅配が続けば誰しも闇に頼らざるをえない。
いわば食管法は守れるはずのない法律、矛盾の塊であった。その中で良忠はどうしていたか。
「全くの配給だけなので、生活ぶりは、まことに惨めでございました。主食は缶詰のときは缶詰だけ、豆のときは豆ばかり食べるほかなく、目方を計りまして四人で分け合っていただきました。子供は、可哀想なので、出来るだけ多くやり、後を二人で分けあいました。野菜も魚類も統制され、身動きできない有様でした」(山口矩子手記)
そして1947年8月27日、良忠は東京地裁で倒れた。栄養失調による肺浸潤と診断され、郷里の佐賀で療養する事になった。