豊臣家が滅んだ大坂の陣(1615年)から400年──。徳川側に敗北した豊臣側の末裔たちに、先祖から伝わる話を聞くと、今もさまざまなものが現代に残っているという。集まってもらったのは、豊臣秀吉の子孫・木下崇俊(きのした・たかとし)、石田三成の子孫・石田秀雄(いしだ・ひでお)、大谷吉継(よしつぐ)の子孫・大谷裕通(おおたに・ひろみち)の三人だ。
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大谷:うちにも遺品はないですけど、「大関ケ原展」では、吉継が持っていた短刀「包丁藤四郎」が展示されていました。現在は尾張徳川家の徳川美術館の所蔵ですが、いつ徳川家に渡ったのかはハッキリしません。学芸員の方に、まさか関ケ原の戦いで割腹した短刀を取っていったわけじゃないよね、って聞いたら、それはないです、って(笑)。たぶん、吉継が伏見の屋敷で酒宴を張って秀吉や家康などを招いたときだろうという話になりました。そのときに手土産で家康に渡したのでしょう。家康は駿河で亡くなるじゃないですか。その形見分けで尾張徳川家の初代・徳川義直に渡って、今、徳川美術館にあるという話です。吉継を評価していた家康は、ずうっと肌身離さず持っていてくれたんだなっていう感じがしますね。
石田:三成の刀も残っています。関ケ原の直前に、三成と敵対関係にあった加藤清正や福島正則ら7人の武将が三成を襲撃しました。諸説ありますが、このとき三成が逃げ込んだ先は家康の屋敷だったともいわれています。その日、たまたま家康の次男・結城秀康が屋敷にいた。秀康は秀吉の養子になっていましたから、秀吉のもとで三成とは面識があって仲が良かった。翌朝、家康の指示で秀康が三成を居城の佐和山城まで送っていくんですね。別れるときに、お礼として三成は自分の刀を秀康に与えました。これが後世、「石田正宗」と言われる名刀で、重要文化財です。秀康の子孫である津山松平家に伝わり、今は東京国立博物館にあります。これも「大関ケ原展」に出品されていたのですが、あまりに大人気で驚きました。今、刀がブームになっているみたいですね。