3日に1回、家族から手紙が届きました。父は「寂しくなったら東京の空に向かって、お父さんと3回呼んでごらん」。母は初めのうち「おばさんとおじさんの言うことを、しっかり聞いていますか」という内容だったのですが、途中から「東京は毎日空襲です。お母さんも勇気を出して頑張っています。万一のときは天命と思ってください」と変わっていきました。

 そして3月10日。喜兄ちゃんの話では、自宅と周辺は爆撃で火の海。7人で必死に逃げたけれども、離れ離れに。父から「学校の窓に飛び込め」と言われ、無我夢中で飛び込み、そのまま気絶してしまったようです。起きると校内も周辺も死体の山。自宅に戻り、3日待ったけど誰も帰ってきませんでした。「6人は亡くなった」と言いましたけど、実はまだ「行方不明」。6人の遺体も遺骨も見つかっていないんです。

 終戦後に帰京し、親戚の家を転々としました。優しかった親戚は豹変。「なんでお前が生き残ったんだ」。厳しいことも言われました。

 ある日、自宅跡に「金馬来たる。連絡乞う」という金馬師匠の看板を見て、神田の楽屋に行きました。「生きていたのか! 辛かっただろう。うちの子になりなさい」と師匠。その晩の布団の暖かさは今も忘れません。

 そして養女としてお世話になるうちに夫と出会い、4人の子供と孫に恵まれました。今一番幸せなのは、夕食を家族で食べるとき。長男(九代目林家正蔵)夫婦、孫3人、出戻り娘の泰葉、次男(二代目林家三平)夫婦。昔のわが家がそうだったように、賑やかに食べています。

 東京大空襲から70年。戦争を知らない世代も増えています。亡くなった人の供養と空襲の記録を伝える活動は、今後もしっかり続けていきたいです。

週刊朝日  2015年8月28日号