1945年8月15日の戦争終結から、今年で戦後70年を迎える。エッセイストの海老名香葉子さん(81)は、家族を奪った東京大空襲の悲惨さをこう振り返る。
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1945年3月10日未明の東京大空襲のとき、私は疎開先の静岡県沼津市にいました。小学5年生。遠く東の空がぽおーと赤く染まるのが見えて、涙が止まりませんでした。「どうかみんな無事でいますように」。ひたすら祈りました。
4日後、2歳年上の喜(きい)兄ちゃんがボロボロの姿で訪ねてきました。「みんな死んじゃった。守れなかった。香葉子、ごめん」。父、母、祖母、2人の兄、弟の6人を失いました。その晩は喜兄ちゃんと抱き合い、ずっと泣きました。
父は釣竿師の3代目。東京・下町の仕事場兼自宅は20畳ほどで、鹿児島などの山で採れた竹がいっぱい立て掛けられていました。常連客には先々代の市川団十郎さん、中島飛行機の社長さん、後に命の恩人となる三代目三遊亭金馬師匠がいらして、賑やかでした。
開戦の年(41年)まで、すき焼きを食べる余裕もありました。クリスマスイブは毎年、近所の子も呼んで20人くらいでお祝い。煮物やかやくご飯を食べ、板チョコも配られたんですよ。本当に幸せでした。
でもだんだんと戦況が悪化。44年6月、私だけ父の妹がいる沼津に疎開することに。出発前、母が涙をぽろぽろ流して抱きしめてくれました。「香葉子は明るくて強い子だから、大丈夫よね」「平気よ!」。心配かけまいと、とにかく強がりました。まだ4歳だった弟のこうちゃん(孝之輔)は宝物のメンコをくれました。「ねえねえが持っていっていいの?」「うん」。もんぺのポケットに大切にしまいました。今でも自宅に保管しています。
静岡に向かう東海道線の車内では、父が「カチカチ山」や「桃太郎」のおとぎ話をずっとしてくれました。普段は無口で、何もしゃべらない人なのに。