モデルで国連WFP日本大使の知花くららさん(33)は沖縄出身。那覇市に住む祖父、中村茂さん(86)は、沖縄戦での集団自決の生き残り。これまで沖縄戦のことを、祖父になかなか聞けなかったという知花さん。戦後70年の今年、当時の詳細なできごとや祖父の思いをじっくりと聞いた。
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1944年9月、沖縄・慶良間(けらま)諸島の慶留間島(げるまじま)の北部に日本軍が駐屯するようになった。兵舎造りや食料調達など、兵隊がしっかり戦えるようにと住民も心をこめて協力した。「いざとなったら、自分たちを守ってくれるはずだ」。日本の勝利をみじんも疑わずにいた。国を守るためにやって来た兵隊が、勇ましく見えたという。
当時、長女の八重子おばは日本軍のための食料調達や農作業などを手伝っていた。私が幼い頃、八重子おばが、「兵隊さんたちと、楽しく故郷のお話したこともあったわ」と、懐かしそうに語っていた。戦場となる前の、人間らしい、あたたかい交流だったのだろう。これから待ち受ける地獄を、誰も想像することなどできなかった。
翌45年3月26日、沖縄戦の始まりは、米軍の慶留間島上陸だった。祖父は港に無数の黒い艦隊が押し寄せているのを見た。
「鬼畜米英に捕まれば、女は強姦され、男は引きずり回されて殺される。捕虜になるのは恥」
住民はそう教えられていた。
3姉弟を含め15人ほどの村人が森で身を隠すように集まっていたが、米軍の攻撃が激しくなり、みんな逃げて散り散りになった。ふと気付くと、長女とはぐれ、祖父は次女と数人の村人と一緒だった。そして、自決のために、島の北西にあるサーバル近くの壕(ごう)へ。他の人はとっくに殺されて、残っているのは自分たちだけだと思い込んだ。
「私を殺して!」
次女は、弟の祖父にそうせがんだという。祖父が次女の細い首をひもで絞め、自分も一緒にと自らの首も絞めた。だが、失敗。次女は苦しさから指でひもを必死に緩め、そしてまた叫んだ。
「茂、お願い! まだ私は死んでないよ! 早く殺して!」