BUFFALO SPRINGFIELD / BUFFALO SPRINGFIELD
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 1966年の春、ニール・ヤングはベース奏者のブルース・パーマーと中古の霊柩車でカナダを出た。目指すは、カナダで出会い、意気投合していたスティーヴン・スティルスが暮らしているはずのロサンゼルス。完全な違法入国だったが、ともかく、なんとかLAにはたどり着けた。しかし、彼らはスティルスの住所も電話番号も知らなかった。無謀な話である。諦めてサンフランシスコに向かおうとしたその日、彼らは反対方向から走ってきたスティルスに声をかけられた。大渋滞が起こり、クラクションが鳴り響く。それは、バッファロー・スプリングフィールドの誕生を告げるファンファーレだった。
 音楽業界関係者のあいだでスティルスがすでにある程度の評価を得ていたこともあり(モンキーズのオーディションにも参加し、運よく落ちていた)、ザ・バーズの前座を務めること、ウィスキー・ア・ゴーゴーでの定期出演、大手アトコとの契約などが決まっていく。そして、夏から秋にかけて録音が行なわれ、ニールが21回目の誕生日を迎えた直後、セルフ・タイトルの記念すべきファースト・アルバムがリリースされたのだった。
 当然の成り行きとして、スティルスが全体をリードしているが、ニールは「クランシーは歌わない」、「フライング・オン・ザ・グラウンド・イズ・ロング」、「バーンド」、「アウト・オブ・マインド」の4曲を提供。ヴォーカル・パートはスティルス、リッチー・フューレイとほぼ対等に担当し、随所で個性的なギターと新鮮なハーモニーを聞かせている。まだまだ方向性は定まっていないが、二十代を迎えたばかりの若者が持てるもの、暖めてきたもののすべてを吐き出したという印象だ。ただし、サウンド・プロダクション、とりわけステレオ・ミックスに関して彼らはかなり不満を感じていたらしい。
 翌年以降、シングル・ヒットしたスティルスの「フォー・ホワット・イッツ・ワース」を加えた再発ステレオ盤が定番となっていたが、現在は、あわせてオリジナルのモノ版も1枚のディスクに収めたものが入手できる。

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