会津松平家第14代当主松平保久(もりひさ)氏が父親の保定(もりさだ)氏について、こう語る。

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 親父の保定は、戦時中に17歳で家督を継ぎました。東京・小石川の屋敷は空襲で焼け、戦後の農地改革や財産税で財産はすっかりなくなりました。おふくろと結婚したときは、6畳一間に住んでいたそうです。

 子どものころは、それこそ「若様」と呼ばれて育ってきた人です。農林中央金庫で働いていましたが、一介のサラリーマンとして生活するというのも簡単ではなかったはず。まあ、サラリーマンとはいいながら、何かあれば会津の用事を優先してましたけどね。だから出世しなかったんじゃないかな(笑)。

 たとえば、5月3日の、初代・正之がまつられている土津神社での例祭と、4日の歴代墓所での会津松平家お花まつりです。土津(はにつ)神社は猪苗代、歴代墓所は会津若松にありますが、親父は毎年欠かさず参列していました。私も、この二つには、小さいころからいや応なく連れていかれました。

 会津松平家お花まつりは、会津らしい簡素なお祭りです。松平家の墓所で、近くでつんだお花を飾って、神主さんが祝詞(のりと)をあげる。たとえ、お祭りがすたれて参列してくださる方がいなくなっても、お前と家族だけででも守りなさい、ということは親父に言われました。

 何よりも会津のことを大事にしていた親父ですが、晩年に一番喜んでいたことは、宮内庁から頼まれて、昭和天皇が亡くなられたときの「大喪の礼」で祭官をつとめたことでした。その後も1年間、昭和天皇の御魂をお守りする行事があったのですけど、毎週のように八王子にある武蔵野陵へ朝早くから行ってました。

 
 家訓の第1条、「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、……」は、皇室への敬意なんだ、ということを親父は強く言っていました。

 ただ、靖国神社の宮司にならないかというお話がきたときは、かなり悩んでいました。結局、「新政府がつくった靖国神社には、維新の功績者がまつられ、朝敵にされた会津藩の御霊はほとんどまつられていない。当主の自分がそこの宮司になるわけにはいかない」と断り、筋を通しました。

 僕は、大学を卒業してNHKに入りました。ドラマ部にもいたことがあって、そのときの後輩が、「八重の桜」の担当プロデューサーです。東日本大震災の年に、彼が「ちょっとお許しを得なきゃいけないことがあります」と言う。どうしたの、と聞いたら、「会津のことを大河でやらせていただきたいと思いまして」という話でした。

 ありがたいけれど、主人公が新島八重さんだっていうんで、僕はびっくりしたんです。八重さんって、会津の人たちは知ってますけど、全国レベルだとほとんど無名でしたからね。そんなにマイナーなヒロインで大丈夫なのかな、なんて心配もしましたけど、結果的にとても良かった。

 おかげさまで「八重の桜」は、かなり会津側の視点で描いていただきました。ただこれは、長州・薩摩のみなさんは、「うーん」と思っておられる方が多いということ。来年は長州の吉田松陰の妹さんが主人公だそうですね。同じ幕末が視点を変えてどんなふうに描かれるのか、たいへん興味深いです(笑)。

(構成 本誌・横山 健)

週刊朝日  2014年7月18日号より抜粋

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