「入学したとき、夏目漱石、尾崎紅葉ら立派な先輩方がこの学校で学んだということが励みになりました」と語るのは、日比谷(東京)を1963年に卒業した町村信孝元外務大臣(69)。
1878(明治11)年に東京府第一中学として創立された日比谷は、新制東京大学の入試が行われた1949年から67年まで、東大合格者が日本一。町村議員が東大に現役合格した63年には167人、翌64年には最多の193人が東大に合格している。
「自由闊達(かったつ)な雰囲気のなか、やりたいことを自由にやることができました。文武両道の学校で、私が中3のときにラグビー部が全国大会のベスト8に入った。全国大会に出たくて、高3の11月末までラグビーに打ち込みました。残念ながら、東京都ベスト8という結果でしたが、充実した3年間で楽しい思い出がいっぱいあります。学校から勉強するように言われたことはなかったです」(町村氏)
高2、高3のクラス編成は生徒に任されていて、校庭に8本の旗を立てて1日がかりでクラス編制をしたという。生徒の自主性を尊重する自由な雰囲気のなか、東大の合格者数を伸ばしてきた同校だったが、学校間格差をなくす目的で東京都が67年に学校群制度を導入したことで不振が始まる。日比谷は九段、三田と同じ学校群になり、受験生たちは進学する高校を選べなくなったのだ。
「日比谷つぶしだと感じました。学校を選べなくなったため、成績優秀な生徒が私立を選択するようになり、都立高校全体の進学実績が落ちました」(同)
64年には日比谷、西、戸山、新宿、小石川、両国と東大合格者数ベストテンに6校もランクインしていた都立高校は、75年にはベストテンから消えた。日比谷も、90年代初めには7~8人と凋落(ちょうらく)した。
東京都は「都立復権」を目指して、94年に単独選抜制度を復活。さらに2001年には日比谷、西、戸山、八王子東を進学指導重点校とした。この結果、日比谷は東大合格者数を徐々に増やし、今春は37人で全国の公立でトップになった。
「とはいえ、昔と比べると寂しい数字ですね。脈々と築き上げてきたよき伝統が学校群制度によって崩れてしまった。伝統校でのびのびと3年間過ごすことができたことは私にとって財産です。母校には、またよくなってほしいですね」(同)
※週刊朝日 2014年5月9・16日号より抜粋