作家・エッセイストとして知られる嵐山光三郎氏。本誌内のコラム「コンセント抜いたか」で、平凡社時代の同僚で漫画家の故・安西水丸氏との思い出をこうつづる。

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 先週号のこのコラムで安西水丸と出会った話を書いた。それは3月14日の夜で立川志らく独演会だった。隣席に坐っていた水丸は、「この歳になってなんでこんなに忙しいんだろう」と恨むような顔をして言った。その言葉の裏には「嵐山も同じだろう」という同情の響きがあり、そのヒトコトに触発されて「のんきなとーさんは悲しい」という一文を書いた。

 水丸は私が平凡社に勤務していたころの同僚で、正確にいえば、1971年(ふたりとも29歳)、平凡社に途中入社してきた。大学を卒業後電通に入社して国際広告製作室へ配属となったが、4年後に退職してアメリカへ渡り、ニューヨーク・タイムズの求人広告を見てADACへ入社した。シシリアンが経営するデザイン・スタジオであった。その会社に2年勤めてから帰国し、平凡社の求人広告を見て応募し、入社してきたのだった。

 最初は「こども世界百科」編集部に配属され、動物雑誌「アニマ」のアートディレクターを手がけた。同じ雑誌部にいた私と気があって新宿ゴールデン街を飲み歩いた。なんで仲良くなったのか、よくはわからぬが、ようするに相性がよかったのだろう。

 入社した一年後、南伸坊が編集長をしていた月刊マンガ誌「ガロ」の宴会旅行で箱根の宿に泊まった。安い温泉宿だったが、赤瀬川原平、林静一、渡辺和博、松田哲夫といったメンメンが一緒でバカ騒ぎをした。そんな縁もあって、1974年の秋から『青の時代』シリーズを「ガロ」に連載した。この漫画に登場する少年「ノボル」は水丸の投影であった。

『青の時代』が「ガロ」に連載されるとたちまち評判となり、「安西水丸とはなに者か?」と騒がれた。

 水丸の風景へのかかわりかたは、父を失った少年が持つしたたかな意志だ。意志もまたひとつの孤独である。悲しく、孤独で、透明な意志が、『青の時代』に登場する千倉の海の水平線に漂っていた。

 海の風景は、孤独な少年にとって残酷強暴でありながら心あたたかい父のようなものであった。夕暮れの海はやさしく水丸少年を包んでくれたかと思うと、たちまち、とめどもない空漠の果てへとつれ去る。

 言葉をもたない孤独、いいようのない淋しさは、水丸少年の場合、千倉駅を発する汽車、町の小路、草競馬、海辺の小屋にむかう。祭りのたびにやってきて風のように去っていく香具師たち。それをじっと観察する少年が水丸であった。

 水丸漫画にしばしば登場した見開きの風景、あるいは最終一ページぶんの風景は、父を失った少年がたちむかう荒野だった。

 水丸は昭和17年7月22日、東京赤坂に生まれた。父は新橋で建築設計事務所を開いていた渡辺福次郎である。7人きょうだいの7番め、7人中兄がひとりいるだけで、あとはすべて姉である。父福次郎は水丸が3歳のときに亡くなった。直接の死因は結核だが、軍の仕事で千葉の海岸にトーチカを造っていたとき、火薬爆発事故に遭遇して、その後遺症で体が弱くなっていた。

 したがって水丸は父親の思い出をほとんど持たない。ただ母親が「放蕩しつくした男だよ」とため息まじりに回顧するのを聞かされていただけだ。モダン好きのシャレ男で、古い写真アルバムに大正式蓄音機の前でポーズをつけたシーンがあるという。

 1988年2月、テレビの深夜番組「NY者」(氏家力ディレクター)で一緒にニューヨークへ行って、水丸がマスミ夫人と暮らしていたアパートを訪ねた。古ぼけたアパートの階段を上ると、マッカな冬バラが咲いていた。真紅のバラの花弁の奥で赤い昆虫がうごめき、水丸は冬バラの虫の句を詠んだ。吟行では水丸の句がさえわたり、機嫌をよくしてなじみのカレーライスの店へ案内してくれた。

 その3年後、村上春樹夫妻と、編集者岡みどりさんと水丸と私と、雪が降る神田明神裏の河豚料理屋へ行って雪見酒をした。岡みどりさんが亡くなり、水丸も3月19日に没した。森の暗がりに隠れるように、ふいに姿を消した。

 昨年11月にふたりで久しぶりの絵本『ピッキーとポッキーのはいくえほん』(福音館書店)を作った。その夏祭バージョンを製作中であった。カルタも出す予定であった。

 水丸と会って、酒を飲んで、カレーライスづくりの競争をして、絵本を作り、悪口を言いあい、決して反省せず、自慢だけして後悔せず、映画を語りあって43年がたち、ヒュードロンと消えてしまった。

 昔からの友だちは自分の一部である。呆然と立ちつくすだけで、涙も出ない。私のある部分がポコッと崩落してしまった。ただ喪失のなかにいるだけだ。

 水丸、伸坊、嵐山の三人の俳画カレンダーを作って10年以上になる。2014年版は、水丸は1月、4月、7月、10月を描いている。伸坊は2月、5月、8月、11月。ひとりが4回ぶんの俳句と絵を描いて友人各位に配っている。

 3月は私の担当月で、椿の絵を描き「夕暮れて椿の姫とデートする」の句を添えた。私だけ絵の素人だから、薮に咲く椿の花を写生した。伸坊はの絵ばかり描いたネコ俳だ。で、水丸(俳号・水夢)はヘタウマの王道をいき、4月は雲に月を描き、「待つよりは待たせる辛さ春の月」の句が添えてある。この句は太宰治が檀一雄にむけて言った台詞「待つ身が辛いか、待たせる身が辛いか」に由来する。熱海の旅館で金を使いはたした太宰を救出するために檀が金を届けると太宰はその金も使い果たして逃げてしまい、檀が人質となってしまった。

 怒り狂った檀に対して太宰はこの台詞をむけ、『走れメロス』を書いた。

 ちなみに7月が水丸の担当月で、団扇が描いてある。その絵も文句なくヘタウマで、句は「ばたばたと人情おくる団扇かな」だって。7月には水丸が冥土からばたばたと人情の風を送ってきます。

週刊朝日  2014年4月11日号