「人間風車」崩壊――。日本のプロレス界でアントニオ猪木、故ジャイアント馬場と死闘を繰り広げたビル・ロビンソンさんが3月3日、米アーカンソー州の自宅で亡くなっていたことがわかった。75歳だった。同い年のプロレス評論家・門馬忠雄さんが、在りし日の思い出を本誌に寄せた。

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「東京スポーツ」の記者時代に国際プロレス担当として、巡業旅などで時間をともにした。「同窓生」を失ったようで無性に寂しい。

 ロビンソンは英国伝統のレスリング技術を初めて日本に持ち込み、アメリカンプロレスに感化された日本選手を覚醒させた“つむじ風”であった。「このガイジンは反則をしないのか」。お客さんも、彼の紳士的なプロレスにカルチャーショックを受けた。

 初来日は1968年、国際プロレスの「日英チャンピオン・シリーズ」。このとき29歳で、188センチ、118キロのバランスの取れた体。まさに絶頂期だった。

 相手の両腕をクラッチ、そのままブリッジして後ろに弧を描くように投げ捨て、両肩をマットに沈める華麗な秘技「ダブルアーム・スープレックス」。食らった選手は受け身が取れず、困惑した。この秘技を武器に、たちまち国際のトップ「IWA世界ヘビー級王者」となった。その洗練されたテクニックとファイトは国際の選手だけでなく、故ジャンボ鶴田のエルボー・スマッシュ、ワンハンド・バックブリーカーに見られるように、全日本、新日本の選手にも影響を与えた。

 だが彼自身は日本で活躍するうち、アメリカの選手に同化され、その魅力が半減してしまった。私にとっての「人間風車」は、来日当初のロビンソンなのだ。

 私生活では美男ゆえに女性にはモロ弱かった。下半身の防御はゼロ。酒にもだらしなかった。英国の紳士は表向き。午前零時を過ぎてからギンギンギラギラに強くなる夜の帝王だった。

 全盛時、何度か一緒に飲んだことがある。あるスナックで私が「歌え」と強要したことがあった。怒ったね。ネックハンギング・ツリーを食らって吹っ飛ばされた。彼がひどい音痴であることを知らなかった。

 晩年のロビンソンは、離婚で孤独の身。2008年まで東京・高円寺のジムでコーチを務めた。だが、膝が悪く、太りすぎ。酒の匂いが絶えなかった。なぜか、格好よかった初来日との落差がミッキー・ローク主演の映画「レスラー」の哀歓シーンと重なるのだ。合掌――。

週刊朝日  2014年3月21日号