心理学者の小倉千加子氏が「専業主婦」について考えた。

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 現在、3人に1人の独身女性が「専業主婦」になりたいと思っているのに対し、結婚相手に「専業主婦」になってほしいと思う独身男性は5人に1人しかいない。「専業主婦」になりたい女性がそれを許してくれる男性と巡りあうことは難しく、「専業主婦」は狭き門なのである。

「専業主婦」という言葉は、考えてみれば不思議な言葉である。主婦に専業がつく。

 主婦はもともと兼業のものだったのである。

 かつて主婦は家に仕える男性や女性たちを束ねて家庭の管理をするものであった。古代ギリシャでも、主婦は「家庭管理のプロ」として羊の世話をする奴隷に目を光らせていたものであった。

 しかし、大正時代に日本では「専業主婦」は「ごちそうさん」のめ以子のように、奴隷や女中なしに一人で家事をする存在として誕生した。

 め以子は自分自身が「女中」を管理する側ではなく「女中」そのものなのだが、当時は嫁しても1年ぐらいは籍を入れてもらえないのは普通のことであった。

 主婦になるには「試用期間」があったわけだが、婚家を会社だと思えばそれなりに合理的な制度だったかもしれない。

「嫁」が「女中」から「主婦」に「正式採用」されるには、性格や能力を認められるまで努力して、子どもを産まなければならない。どちらか一つでは難しいのである。どんな「家」にも和枝はいて、そのお眼鏡に適わねばならない。専業主婦は「職業」だったのである。

 大正時代には「卒業顔」という言葉もあって、女学校を中退せずに卒業するまで在籍している女性は縁談の声がかからない程度の「顔」であるという意味である。女学生にとって卒業前に片付いていくのが女性の「自己実現」だったのである。

 顔で選ばれ、家事で評価され、子どもを産んで、はじめて「専業主婦」の座に就けるのだから、「専業主婦」になるのは「職業婦人」になるよりも厳しい道だったのである。だからこそ成功した「専業主婦」に憧れない女学生がいない筈がない。明治生まれの女性は生来の要素と不断の努力によって自分の生きる場所を手に入れた存在だったのである。自分の生き方に誇りを持つのも当然である。

 出版社に勤める編集者の女性が私に言ったことがある。

「会社は私には「家』のようなもの。その中にいる限り守ってもらえますし、そこにいないと私は食べていけないのですから、会社に忠節を尽くすのは当然です」

 現在、専業主婦は「職業」ではない。「家」制度が一番色濃く残っている沖縄県でも結婚が破綻したからといって女性が家長に庇護されて食べていくことはできない。

 結婚制度の最大の変化はもちろん結婚が「愛」と結合したことである。

「試用期間」もなく、家事能力の「認定」も要らず、家の中に和枝がいるわけでもない。適当な相手さえいれば明日からでも「専業主婦」になることができる。

 現在、3割以上の女性が「専業主婦」になりたいと思うのは、外で働く「労働」よりも、家事や子育てのような「愛情の仕事」の方が女性には重要だし、自分には向いていると考えるからである。外での「労働義務」からの解放と言ってもよい。

 料理や子育てを、「趣味」を昇華させたものとして楽しみたい。

 め以子の専業主婦像は平成の専業主婦志向に通じるものがある。

「労働」と「主婦」の二重役割の強制に女性は疲れてきているのである。

週刊朝日 2014年1月17日号