ジブリ最新作「風立ちぬ」の公開が始まった。宮崎駿監督が72歳にして、初めて実在の人物をモデルに映画を作った。日本の技術力を世界に認知させた“昭和の天才”が残したものとは。
宮崎駿監督は、5年ぶりの新作映画「風立ちぬ」の完成試写で、人目をはばからず号泣したという。監督が自らの作品で泣いたのは初めてで、ファンの間でも話題になった。一方、同じく深い思いを持って涙を流した人がいる。主人公である零戦設計者の堀越二郎(1903~82)の長男・雅郎(ただお)さん(76)だ。
「父にとって零戦とは、設計者として誇りを持っていると同時に、悲しい思い出につながる複雑なものだったと思うんです」
32年に28歳の若さで設計主務者となった二郎は、37年に零戦の設計を任される。だが、海軍が要求する性能は過大で、開発には苦労が絶えなかったという。それでも懸命の努力で世界最高性能の戦闘機を完成させた二郎は、日本の航空技術の高さを世界に知らしめた。
しかし、“無敵”の期間は短かった。対米戦に突入した日本は、42年のミッドウェー海戦で大敗を喫し、劣勢となる。やがて零戦は、戦争末期に特攻機として使用され、たくさんの若者を死なせた。
「父は、太平洋戦争の前から『英米相手に戦争をしたらとんでもないことになる』と、母に話していたそうです。その10年ほど前に欧米で航空技術の勉強をした時に国力の差を見ていますから、技術者としてそう感じていたのではないでしょうか」(雅郎さん)
栄光と悲劇。これが零戦にまつわる物語の宿命である。今年、堀越家で発見された「八月十五日」と題された便せんには、二郎の直筆でこう記されていた。
「明日からわれわれは何をしたらよいのだろう。飛行機を造ることが終ったという以外現実には何も分らない。分らないが考えなければならぬ」(原文ママ)
戦後、零戦開発で得た技術は自動車や鉄道などの製造に転用され、日本の高度経済成長を支えた。二郎も三菱重工業などに勤め、復興の礎となった。“昭和の天才”は78歳でこの世を去ったが、零戦は今でも人々に語り継がれている。
※週刊朝日 2013年8月2日号