デジタルカメラの誕生と進化により、写真の「合成」や「加工」はとても身近なものになった。撮影後にパソコン上で画像を処理することも容易になった。同時に、写真表現としてどこまでの合成、加工が「許容」されるのか、という点は常に議論され続けてきた。その基準は各コンテストでも多様であり、作品のテーマや写真家のスタンスによっても、さまざまな意見がある。
そこで、現在発売中の『アサヒカメラ』3月号では、各界で活躍する写真家に写真の合成と加工に関する「哲学」を聞いてみた。今回は風景写真家の中西敏貴さんのインタビューを一部抜粋する。
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「邪魔なものは消せばいい、足りないものは足せばいい」。
そんな言葉のやりとりを風景撮影の現場でも日常会話的に耳にすることが多くなりました。
デジタル化によってそういった加工が容易になったのも一つの要因でしょう。
聞いた話では、光芒が足りないからといって、光芒を描いてしまう人がいるとか。
それはそれで素晴らしい技術だとは思いますが、いま一度、その思考プロセスを冷静に考え直してみる時代がきているんじゃないでしょうか。
例えば、ある撮影ポイントで「木が足りない」という言葉が出たとします。なぜ木が足りないのかというと、構図のバランス的に木が足りないわけです。
アートの表現として明確な設計図があり、それに沿って余計な要素を排除していく、あるいは必要な要素を足していく、という意図であればわかりますが、邪魔だとか、なんとなく物足りないというのは、設計図ではなく、極論すれば撮影者のエゴではないかと思うんです。
誤解を恐れずに言えば、写真は本質的に嘘つきだと考えています。
表現としての合成を否定するつもりはありませんし、レタッチもしかりです。
そもそも、実像を写真に置き換えている時点で何かしらの加工や脳内変換はされるわけで、その根底を否定するつもりなど毛頭ありません。