片島:はい。でも、「活動弁士に憧れた少年が、大きくなって、活動弁士になりました」では、あまりにもストレートすぎますから(笑)。紆余曲折があって、どうやってゴールにもっていければいいか考えていたときに、主人公が最初、ニセ興行師によって泥棒の一味にさせられて、そこから更生していくという話であれば、ドラマになるかなと。それを思いついたのも、もう15年ぐらい前ですけど。
周防:『舞妓はレディ』を撮っているとき、片島さんから「こんな脚本書いたんですけど、読んでもらえますか」と言われて、読ませてもらったら、これがすごくおもしろかった。何がおもしろいと感じたかというと、活動弁士の存在自体も、もちろん面白いんですけど、物語全体がまるで「活動写真」のようになっている。つまり、あの時代のアクション映画の味わいがあったんです。この物語自体が、活動写真的な魅力に溢れていて、しかも活動弁士の仕事ぶりや、当時の映画館に集う人々の息遣いもちゃんと伝わってくる。
それからしばらくして、プロデューサーから、「周防さん、監督しませんか」と言われて、映画の準備が始まったんですけど。
片島:それが、5、6年前ですね。
■サイレント映画は「無音(サイレント)」ではなかった
周防:僕はほかの人のシナリオで撮るのは初めてで、時代劇も初めてなんです。それでつらつらと考えていると、はたと気づいたことがあった。
僕もサイレント映画は学生時代、結構観てはいるんです。でも、片島さんとは違って、勉強のためにという意識だったんですよね。「映画を撮るには、活動写真時代、つまり台詞のないなか、動きでどう伝えるかを知ることが大事だ」と言われて、フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)などに通って。
でも、そこには活動弁士はいないし、もちろん楽士たちの演奏もない。サイレント映画なんだから、サイレントで観るのが当たり前というか、それこそが正しいサイレント映画の見方だと信じていたわけです。ようするに活動弁士をなかったものにしていた。
それから数十年経って、片島さんのシナリオをちゃんと読んで、待てよ、と。明治のおしまいから大正、昭和のはじめにかけて、サイレント映画をサイレントのままで観ていた人なんて、この世にいなかったんだ、ということに気づいたんです。
片島:観客の歓声や、かけ声、野次なんかもあって、にぎやかだったでしょうね。