俺の場合でいえば、相撲時代の親方や、両親にとって代わるくらいの大きなものだね。栄光を掴みたい、ライバルに負けたくないっていう自分があるから頑張れる。また、ここでへこたれたらライバルが喜ぶなと思って、もうひと踏ん張り頑張る力をくれるのもライバル。ただね、身内はライバルにはならないし、家庭のなかで見つけるものじゃない。

 プロレスラーの天龍源一郎ということでいえば、みんなが思い浮かべるライバルはジャンボ鶴田だよね。でも、俺の場合はビジネスライクだった彼の性格だとか、スポットライトを浴びている姿を見て、「あんな態度をとらなければ、もっと会社が発展するのに」なんていうことを考えながら、自分の人生を軌道修正してきたといういきさつがあるから。勝手にライバル像ができていたという言い方が正しいのかもしれない。

 だから、本当の意味ではジャンボ鶴田をライバルだと思ったことはないんだよ。ただ、対立構造として、わかりやすかった。見ている人たちに伝えやすかった。その延長線上として目に入ってくる彼の私生活や行動に対抗していたら、おぼろげに俺の人格が形成されてきたんだと思う。

 やっぱり、自分にないものをもっている人、自分が嫌だなと思う部分を持っている人という両極端なところで、ライバルというものは位置づけられるんじゃないかな。ただし、リスペクトできる存在でもある。それはやっぱり、負けたくない相手だから。自分が生きていくうえでのエネルギーになりえる存在だよね。好きとか嫌いとか妬ましいとか、そういう気持ちの部分からスタートするライバルなんて、小さいものだよ。大人になるにつれ、そんなところからはみ出たものが自分にとってのライバルになる。最後は生き様や家庭だとか、大きなくくりになって自分の人生に還元されるんだよ。

 むやみやたらと、しょうもないやつをライバルだと敵視するのは結構だけれど、見誤らないということが大事。身近な人をライバルにするのは、自分も今の状況から抜け出しやすいし、一歩踏み出す要因になるっていうのは確かだよ。ただね、例えば会社の社長だとか、大きくなりすぎた人をライバル視しても、結局は負い目を感じることになる。それで前進力が生まれない場合もあるからね。そこは気を付けてほしい。

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目に見える像があってこそ、ライバルがいることの深みが増す